汐留パートナーズグループCEO 公認会計士前川研吾のブログ

納骨も初盆もできず

父が亡くなりもう少しで8ヶ月立ちます。闘病が長かったので覚悟もできた上で送り出しました。コロナ禍で納骨も初盆も何もかもできていなくて申し訳ないです。

そんなこんなで責務を果たしていないからなのか夢に出てきました👻(笑) 夢で会えたらと思っていたので嬉しかったですが起きたら涙していました。

コロナ禍でやりたいことややらないといけないことを制限されている方々が本当にたくさんいると思います。何事も優先順位とバランスかなと思います。さすがに私も昨年末葬儀だけは長男として執り行いました。

ですが、何度も何度も実家に帰ると、何分狭い田舎町なので…そんなこんなで本当にもやもやした日々が続いております。さすがに来年には自由になれるといいですね。

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今年の社会保険労務士試験まであと1か月

 

今年の社労士試験は8/22とオリパラの影響で少し早く税理士試験のすぐ後です。上記の写真は昨年私が社会保険労務士の試験を受験する日の数日前にノンアルで決起会をした時の写真です。択一は53点でしたが選択の足切り1点に泣きました。

社会保険労務士はこれからの時代本当に価値のある素晴らしい資格だと思います。ITがどんどん便利になってビジネスのあり方が変わってきますが、ITを使いこなすのも人間であり、実際にどの人と仕事をしたいかということを決めるためのポイントになるのも人間です。

人事労務の領域も、勤怠管理、給与計算、労務管理、採用、人事評価など様々なクラウドソフトウェアが登場し、紙で行っていた業務はほとんどでDX化されております。そういった意味で、若い社会保険労務士がたくさん誕生することは非常に喜ばしい事であると思っています。

今年受験される皆様を心から応援しています。

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慶応義塾大学大学院(KBS)に入学しました

本日慶応義塾大学大学院の入学式に出席しました。面接等もすべてオンラインでしたので、日吉キャンパスに来たことがなかったので楽しみにしておりました。これから2年間毎週土曜日を中心にお世話になります。会場参加とオンラインとのハイブリッド形式でしたが数百人後半の方々が会場にて出席されていたように思います。

私が入学するKBSのEMBAは15年以上の社会人経験を有する方しか受験資格がないため、どんなに若くても37歳からで平均年齢も44歳ということで安心していましたが、良く考えると大学院の入学式は全学部合同開催ですので皆さんとても若くて私とは全く違ってまだ完全に目がキラキラしていました(笑)

このように40歳から再び学ぶ機会を与えてくれた会社のメンバーにも心から感謝しています。テクニカルな所を始め皆がそれぞれ役割を果たしてくれているので経営業務に軸足を置くことができています。長年私の無茶振りに付き合ってくれている長谷川・松橋・金森・小林・黒住・山口・関口・三宅・三井らをはじめとした古いメンバーにも感謝しかありません。

推薦状を書いて送り出してくれたシニアパートナーで博士の平野先生のお陰でもあります。また相談に乗って国内外のMBAのことを調べて教えてくれたシニアパートナーの土屋さんにも感謝です。

必ずやバリューのある仕事をし、会社と社会に金銭的な観点でもそして幸福度の観点でもしっかり還元できる経営人材になりたいと思います。

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私が社会保険労務士試験を受験した理由

昨年令和2年に社会保険労務士の試験を受験しました。残念ながら結果は上記のとおり選択式の健康保険法で1点足りず不合格となりました。社労士試験のあるあるですね。点数的には十分達しているのですが。。

様々な思いがあり社会保険労務士の試験を受験しましたのでブログに記しておきたいと思います。今のところは社労士試験の受験は昨年が最初で最後としもう受験はしないつもりです。自分としてはお恥ずかしい結果の自己開示なので、若干格好つけて書いておりますのでご笑覧ください(笑)

1.ワンストップファームの創業者として

私は2008年当時士業によるワンストップサービスのビジネスがまだ黎明期だったころに「クライアント第一主義」という経営理念のもと「顧客の目線に立ったプロフェッショナルサービスを提供したい」という思いから汐留パートナーズを創業しました。

日本には管理部門のサポートをするための国家資格として、公認会計士、税理士、社会保険労務士、弁護士、司法書士、行政書士、弁理士など、本当に様々な資格があります。欧米だとこれらは公認会計士か弁護士かのどちらかが行うのだというシンプルな国が多いです。

このような日本の資格至上主義は顧客からすると非常にわかりにくく不便であり、一方私達士業であってもどの資格が何の業務を行うべきなのかが非常にあいまいであり、私は「クライアントはそんな事を考えずに業務を依頼することができ、プロフェッショナルファームは業法や資格の壁を超えてソリューションを提供できればいい」と考えていました。

私は公認会計士・税理士・行政書士・USCPAとして主に会計税務等の領域を日本語と英語で対応可能ですが、次の理由にもつながりますが「人」に対するサービスについてもしっかりと理解して会社を発展させていきたいという思いから社会保険労務士の試験を受験することにしました。

2.これからは一層「人」が大切になる時代

「ヒト・モノ・カネ」の中で何が一番大切か?経営者に問うとほとんどの方は「ヒト」と答えることでしょう。ITやAIで多くの人間の仕事が代替されていく将来において最終的に残る仕事は「人」でなければならないものです。もちろん「情報」も大切ですが。

この人と仕事がしたい
この人のために頑張りたい
この人たちを幸せにしたい
 など

そのような大切な「人」気持ちよく最高のパフォーマンスを発揮するためには、人事や労務に関連する環境が整備されていなければなりません。社会保険労務士の試験を通じてそのようなインフラを整えるための基礎を学びたいと考えました。

3.亡き父が4回受験して合格できなかった試験に対する興味

私の父は昨年末に72歳で他界しました。私が公認会計士、弟が税理士ということもあり何かしら国家資格取得に対する思いがあったのでしょうか。定年後に4回も社会保険労務士の試験を受験しました。合格すれば家族内ワンストップファームですね(笑)年齢的に60歳を過ぎてからの勉強だったのでとても大変だったと思います。

正月父の遺品を整理していましたら社労士試験の受験結果が見つかりました。箸にも棒にもかからなかったわけではなく結構いい所まで頑張っていた様子が伺えました。父は定年を過ぎてから社会保険労務士を目指しましたが、健康上の理由で諦めたこの「社会保険労務士」という資格に個人的に興味がありました。

ただ興味はあったのものの、余談ですが年金科目は好きにはなれませんでした。私は常勤ではないかもしれませんが生涯現役で、定年なく仕事をし続け報酬を得ると思うので、老齢年金をもらえることはないのだと確信したのでその点は切なかったです。遺族年金や障害年金は意味があるかもしれませんが(笑)

4.働きながら勉強することの大変さの理解

働きながら勉強することはとても大変です。過去に一度それを体験すべく33-34歳くらいでUSCPA(米国公認会計士)の勉強をしました。無事1年半で4科目揃えて合格することができました。ただ思うに日本の公認会計士がUSCPAに合格することはそこまで難しくないように感じます。やる気さえあれば。

今回改めて働きながらの社会保険労務士の試験勉強は大変だと感じました。税理士試験も同様ですが。働きながら試験に合格することは不可能ではありません。しかしながらそれはかなり大変な事です。家族や会社の応援も不可欠です。汐留パートナーズとしてはメンバーが仕事と受験勉強を両立できるように今後も最大限サポートしたいと思います。

5.メンバーにトップ自ら頑張る姿勢を見せたい

ついつい事務所が大きくなると代表者ってあぐらをかいてしまいそうです。でもお陰様で仕事を通じてそのような良くない経営者の姿を見てきて反面教師にできました。自分がそうなってはいけないと思って何かせねばという気持ちが強くありました。

上述のとおり様々な理由で社会保険労務士の受験を決めましたが、やる以上はある程度勉強しました。2020年1月半ばくらいから7か月間くらいメンバーにトップ自ら頑張る姿勢は見せることができたのではないかなと思います。社内では一応一番良い結果でした。

残念ながら私自身合格はかないませんでしたが、今後は汐留パートナーズの人事労務事業部のメンバーがたくさん社会保険労務士の試験を目指して頑張ってくれる環境になりました。そのため潔く1回の受験経験としたいと思います。おかげで私は社会保険労務士試験の大変さをよく理解するプロフェッショナルファームの代表者となることができたと思います(笑)。今後は人事労務分野も理解した経営者として、スペシャリストとしてのスキルアップから、経営スキルを磨くフェーズにシフトしながら人を育て汐留パートナーズを発展させて業界に社会に貢献してまいります。

今後一層「人」が大切な時代となります。労働関係諸法令もめまぐるしく改正され、世の中の企業のコンプライアンスに対する意識もどんどん高くなってきています。汐留パートナーズは人事労務に関するサービスを一層拡充してまいりたく、社会保険労務士やその受験生の方々をたくさんお迎えしたいと思っています。

人事労務業務のすばらしさについて代表者自らがよく理解し敬意を表していることを強くアピールしつつ結びとしたいと思います。汐留パートナーズにおいて人事労務キャリアでご活躍したい方との出会いを楽しみにしています。どうぞよろしくお願い致します。

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立つ鳥跡を濁さず…教育にお金を惜しまなかった真面目な父

2021年新年あけましておめでとうございます。本年1回目のブログで最愛の父の旅立ちについて書こうと思います。

昨年2020年12月28日早朝、父前川紀秋が72歳で死去いたしまいた。病名は悪性リンパ腫で4年程闘病していました。12月30日に通夜、そして31日に葬儀と2020年いっぱいで自身の人生を完結し、子供たちに極力迷惑をかけないようにスケジューリングしたのでしょうか。仕事始めの日から通常の生活に戻ることができそうです。

父への感謝の思いについて棺に手紙を入れようとも思いましたが、ブログにしていつでも見てもらえるようにしておきたいと思います。生前私のブログの更新を楽しみにしてくれていました。汐留パートナーズの発展を楽しみにしてくれていました。私が公認会計士に合格した時の書類も色々保管してくれていました。会社のパンフレットや私が執筆した書籍もすべて大切にしてくれていました。

上記の写真ように一瞬兄弟グレてしまって迷惑をかけましたが、おかげさまで一応恥ずかしくない人生を歩んでいるかなと思います。

病気と歩んだ人生

父は19歳の時に脳腫瘍になりました。釧路の病院ではもう治療ができず匙を投げられ、もう助からないと泣いていたとの事でした。ですが札幌の病院で良い先生に出会い1年越しの闘病生活を経て回復し仕事に復帰することができました。

その際の手術で左半身に一部麻痺が残り、また左耳が聞こえなくなってしまいました。一見そんな様子を見せずに普通に生活をしていたため、私は同居していた高校生くらいまでそのことをよく理解しておらず、あまり機敏に動けなかったり、呼んでも気付かなかったり、テレビの音量を大きくして聞いている父に辛くあたってしまったのを後悔しています。

ちなみに、母はど近眼で遺伝で私もど近眼になってしまったことから、小学校低学年のころから眼鏡をかけていまして、「お母さんのせいで目が悪くなったしまった」と、本当に心ない言葉を発してしまったのを覚えていますし後悔しています。子供って無邪気ゆえに残酷です。

1つの会社で勤め上げる

父は高校卒業後18歳で就職した釧路ガス㈱に定年まで45年以上勤めました。自分も人生で2つの会社だけですが1つの会社で勤め上げるというのは実に難しい事のように思います。色々な人間関係や配置転換等もあるでしょうし、忍耐も必要だと思います。家族のために貧困を乗り越えるため頑張って働いてくれました。そして病気した父を定年まで勤めさせてくれて本当に素晴らしい会社にお世話になりました。

ガス会社ということで、地震がとても多い釧路市では仕事は本当に大変だったと思います。確か震度3か4以上の地震では会社に全員駆けつけてすべてのガス管の点検をしないといけなかったとか。

1993年1月15日釧路沖地震、1994年10月4日北海道東方沖地震、2003年9月26日十勝沖地震と、3回も震度6の地震が襲いました。特に釧路沖地震は私の12歳の誕生会をしている真っ最中…家族も大パニックなのに父は会社に向かって1か月間復旧のため帰ってくることができませんでした。

ガスは長期間使用停止となり、私たち家族はカセットコンロでインスタントラーメンを食べながら父の帰りを待ったのを覚えています。

貧しくも教育にお金を惜しまなかった

父は教育に対してお金を惜しまず使ってくれました。本当は自身も大学に行きたかったようですが、家が貧しく長男として高校卒業後すぐに就職することにしたようです。読書が好きで色々な事を知っている父でした。

北海道の自然に囲まれていたため、貧しくも海で蟹を釣って毎日蟹三昧、鮭を釣ってサーモンといくら丼、その他キノコ狩り、山菜取り、ワカサギ釣りと自然の食材で今思えば超贅沢な暮らしをしていたようにも思います(笑)

さて、小学校の時は勉強をするのが嫌いで全然良い結果を残せず、私はどちらかというとクラスでも成績は中の下くらいでした。中学校になり転校した先の学校で勉強する事の面白さに気づくチャンスがあり、そこから頑張ることができました。中学3年の時には塾にも行かせてもらいました。

お陰で兄弟3人とも高校は釧路市の進学校に行くことができました。高校3年生ではある程度勉強を頑張り北海道大学を受験しました。大学受験の合格発表を見るためになぜか釧路から札幌に電車で向かっていました。でも結果は自宅にちゃんと郵送されていました。開封して合格証書を見た父は、息子に一刻も早く合格を伝えたいと思い、電車(特急おおぞら)に電話してきました。

電車に電話をかける方法は謎でしたが、電車の車内放送で呼び出されて電話を取ると「研吾!合格しているよ!」と伝えられ、私は嬉しさのあまり電車の中で号泣したのを覚えています。北海道大学に合格した時と公認会計士試験に合格した時は人生で同じレベルで嬉しかったです。

そして私は前川家で初めて大学に行かせてもらうことになりました。兄弟三人国立大学を卒業することができました。その後私は公認会計士、弟は税理士になりました。従弟も公認会計士になり続きました。父は教育に対する意識が非常に高い人でそしてそれに応えたくて頑張りましたし、結果を出すと自分の事のように喜んでくれました。教育をしっかり受けたことにより、私達は自分たちの家族の生活を少しずつ楽にすることができるようになりました。

定年退職後に父は社会保険労務士の試験を受験していました。合格はかなわなかったのですが、専門学校のチューターには「息子さんたちは難関の資格に合格しているので頑張ってくださいね」と言われ3回ほど受験していました。

旅行が好きだった父

海外旅行は北海道在住者にとっては夢のまた夢。私達が大きくなるまではほとんど旅行に行っていなかったと思います。釧路空港から羽田空港まで行った後、成田空港から海外に出発しないといけないため、お金も時間も結構かかります。

父は定年後の数年間で色々な所に旅行に行きました。ハワイ、タイ、ベトナム、カンボジアetc. 1人でツアーに申し込んでベトナムに行っていた時は驚きました。以下の写真はハワイに家族旅行した時の写真です。

願わくばもう少しだけ健康な時間があればよかったなと思います。一生懸命仕事をしていてこれから自分の時間とお金を自由に使えるという期間があまりにも短すぎました。

自分の人生についても考えさせられました。定年後の健康寿命というのは意外と短いです。ほんの数年だったんじゃないでしょうか。もう少し色々一緒に行ければよかったです。

立つ鳥跡を濁さず

2020年12月20日に72歳の誕生日を迎えほっと一息ついたのか。私はたまたま早めにPCRの陰性結果を持ち25日の夜から釧路に帰省していました。前々日、前日と2回、滞在していた終末医療機関のホスピス病棟で15分ずつ会うことができました。

両耳が聞こえなくなり、目も片方しか見えなくなっていましたが、なんとか自分が来たことを認識して軽く筆談しました。安心させてしまったかな。父は誕生日から8日後の12月28日に亡くなりました。28日は早朝ホスピスから連絡を受けて駆け付けましたら、まだ温かいし寝ているのかなと思って母と起こしていましたが眠るように亡くなっていました。

父は年末年始休みで家族が集まれるようにしてくれました。コロナのためになかなかこの1年間家族が集まることが許されませんでした。年を越してほしかったですが、ある意味計画的な最後で30日通夜、31日葬儀と、年内にきっちりやり残すことなく旅立っていきました。亡くなる前には、自身の資産の整理や配分、解約すべきもののIDとPasswordをしっかりとまとめていました。

真面目で几帳面、そして家族思いだった父さん。本当にありがとう。そしてお疲れ様。これからも頑張るので天国から見ていてください。

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Twitterを始めてちょうど1年。

Twitterを始め1年になりました。Twitterを始めるにあたってはお作法を含め諸先輩方からたくさんアドバイスを頂き始めました。おかげで特段炎上することもなく平和に過ごせております。

個人的には役員を務める会社がIPOしまして上場審査中SNSを控えるべき状況もありました(過激なことは全く書いていませんが)。

良い出会いもたくさんありました。Twitterを通じてお仕事のご縁を頂いたり、ご入社頂くきっかけとなったりしました。皆様ありがとうございます。

引き続きよろしくお願い致します!

 
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仲間達で熊を捕獲して一緒に記念撮影

帰省した際に皆で古い写真を見ていましたら、私の曾祖父(一番右のどや顔の人)の仲間達で熊を捕獲して一緒に記念撮影をした写真が発見されました。

1926年(大正15年)の写真なので94年前です。剥製の熊だと思いましたが捕獲して写真を撮ったようです。さすが北海道。曾祖父の隣のおじさんが三井物産の服を着ているのが気になりました。

私の曾祖父である前川久吉は1887年徳島県上勝町生まれです。1959年に70歳ちょっとで亡くなりましたが小さな体の前川家では異彩を放つ大柄な男(176㎝)だったようです。お酒が大好きで最後の日もたくさん飲んで家にたどり着いて玄関で倒れて亡くなったとのことです。

1900年ちょっとに徳島県から北海道の道東へ入植し開拓を頑張りました。当時きっと北海道にすばらしいチャンスがあると思って、父母やその他の家族と別れ船で渡ってきたのだと思います。その父(私の高祖父)前川利吉は1927年に亡くなっていますが、きっと送り出した息子に会うことはなかったことでしょう。

ちなみに時代背景として当時は世界中への移住がブーム。1868年はハワイ移民の元年。1869年は蝦夷地が北海道へ改称。1870年は樺太(サハリン)開拓使の設置。1900年前半はブラジル・ペルー・フィリピンへの移住が急増。北海道への移住でなければ日本人になっていなかったかもしれません。

家も道もなく食物も育たない極寒の地北海道で、曾祖父は最初は「ここはまじでヤバい場所だ…」って思ったことでしょう。頑張って皆が繋いでくれたので今の自分がいるので先祖に感謝。一応後世のため記録しておこうと思います。

【繋いでくれた人達】
前川佐津次(その上)1806~1868/2/2(62歳) 
前川利吉(高祖父)1845/2/3~1927/2/25(82歳)
前川久吉(曾祖父)1887/6/11~1959/10/2(72歳)
前川吉秋(祖父) 1922/11/24~2008/7/4(85歳)
前川紀秋(父)  1948/12/20~2020/12/28(72歳※)
前川研吾(私)  1981/1/15~

※2021年1月1日追記:父は2020年12月28日に他界

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賢くないとお笑い芸人になれない

私お笑いが大好きです。今は抱えていることがいくつかありセーブしているのですが、以前は録画して毎週見ていました。

思うに賢くないと継続して売れるお笑い芸人にはなれないと思われます。その上彼ら彼女らも空気も呼んで立ち振る舞っていかねばなりませんし、さらに業界での上下関係も大切にしていかないといけないでしょう。

事業と一緒で一瞬ヒットして売れることはできても「売れ続ける」ことはなかなか大変です。常に変化に対応しながら、新しいものを生み出してくイノベーションに対する貪欲さ。

チャンスがあればお笑い芸人の方とお知り合いになって、色々とお話を聞いてみたいと思います。

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うらやましくもあった出身大学の結束

先日は大学の同級生との食事会でした。私は北海道の大学なのでこちらにはあまり大学の同級生や先輩後輩がいません。ですので久々の集まりでとても楽しい時間を過ごせました。

東京に来たときは、監査法人や証券会社や経営者の皆様の出身大学が、慶応だったり早稲田だったり中央だったり(他にもたくさん)、なんだか、「仲間!」みたいなのがとても羨ましく思いました。

今でもひそかに羨ましく感じることもありますが、そろそろそんなものには負けることのない独自のポジションを主張できるようになってきたかなと思います(笑)

たくさんのお客様によくしていただいて、お仕事をお任せいただいていることに感謝しつつ、また、汐留パートナーズの皆のおかげで魅力的なお仕事を頂ける環境なので、とことんお客様とスタッフに恩返しせねばと思います。

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偉大な先祖?竹前権兵衛・小八郎兄弟

ものすごく個人的なことなのでCEOブログに書くべきことではないのですが、ブログは私のライフワークでもあり日記でもあるので、記録しておきたいと思います。

最近、偉大な先祖がいたという言い伝えがあり興奮しています。もちろん正確かどうかはわからないのですが、、母方の先祖に昔々竹前権兵衛・小八郎という兄弟がいたようです。インターネットで調べても少し出てくる人です。祖母から漏れ伝え聞いた内容が本当であり書籍も出版されていました。潟(湖)を干拓し、水田造成をもくろみ、一身を賭して干拓事業を遂行した兄弟です。

竹前 権兵衛(たけまえ ごんべい)
1679年~1749年。父は竹前治郎助。家は代々信濃(現在の長野県)高井郡米子村の庄屋で、硫黄採掘・販売業を営む。紫雲寺潟の干拓を弟の小八郎の死後引継ぎ、1733年頃に完成させた。幕府は潟を全面収公して、権兵衛には無地代で500町歩を与え、権兵衛はこれを協力者と分かち、残り200町歩ほどを開発して米子、中島、竹島、苔実の4つの新しい村を立てその庄屋となった。

竹前 小八郎(たけまえ こはちろう)
生年不詳~1729年。権兵衛の弟。権兵衛に先んじて紫雲寺潟を視察し、自らの名で幕府に紫雲寺潟開発の願書を出す。開発許可を受け干拓を進める道半ば若くして亡くなる。小八郎の意思は兄権兵衛と協力者達が引継ぎ、干拓は完成する。

竹前権兵衛は、享保5年(1721年)に鷹目硫黄という黄色くキラキラした硫黄を江戸幕府に3900両分お買い上げいただいたようです。1両はいくらか換算は難しいようですが江戸時代の1両≒約25万円とすると約10億円です。

1721年 竹前権兵衛が米子硫黄鉱山で鷹目硫黄を掘り出し、江戸幕府から大金を得る。
1726年 弟である竹前小八郎の名で幕府に紫雲寺潟開発願書を提出。
1727年 幕府より竹前小八郎に開発許可が下りる。
1728年 協力者を得て干拓を進める。領民との紛争勃発。
1729年 竹前小八郎夭折、竹前権兵衛が開発の後を継ぐ。
1731年 領民との紛争解決。
1732年 干拓が完成する。

30,000人余りを雇用し、潟の水を日本海に流して耕地にするという大型公共工事みたいなものを、自腹でやるなんてなんてアグレッシブなご先祖様でしょう(もちろん後でしかるべきリターンは得られたのでしょうが)。最初権兵衛は硫黄鉱山の経営を続けるべく長野県にとどまって弟小八郎にこのプロジェクトを任せたのですが、途中で小八郎は亡くなってしまいました。新潟に移住してプロジェクトをやり遂げたご活躍を尊敬します。

Wikipediaにも「紫雲寺潟」に「信州出身の竹前権兵衛、小八郎兄弟が自費での紫雲寺潟干拓を幕府に許可され」「当時の日本で多く見られた町人請負新田のなかでも最大規模」とありました。

【享保6年(1722年)の紫雲寺潟】

国土交通省北陸地方整備局 阿賀野川河川事務所 ホームページより
http://www.hrr.mlit.go.jp/agano/jigyou/pamph/ryuiki/ryuuiki0201.html

【紫雲寺潟があった所の現在】

私はその苗字を承継しておりませんが、もしご先祖様だと思うと不思議な感覚になります。新潟県紫雲潟干拓事業の犠牲者を弔うため竹前権兵衛が建立したこの紫雲寺という寺院に、今も権兵衛・小八郎兄弟のお墓があるようなので、少し調べてからお墓参りに行きたいと思います。

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