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丹波 栄蔵 Eizo Tamba

この記事の著者

丹波 栄蔵 Eizo Tamba

マネージャー  / 社会保険労務士

IPO(株式上場)の準備と労務DD(短期調査):労働時間の把握の重要性

2024年6月19日

IPO(株式上場)の準備と労務DD(短期調査):未払賃金の発生」では、新規上場審査で取引所が最も重要視する項目の1つである未払賃金問題について、重要な留意点を解説しました。労働時間の把握は、適正な賃金支払いのための大前提となる要素ですので、新規上場審査においても厳しく確認されることになります。このコラムでは、未払賃金問題と深い関連性にある労働時間の把握について、IPO(株式上場)を見据えて留意すべき点について解説します。

法令上の義務としての労働時間の把握

まず、労働時間の把握についての法的な規制について確認しましょう。これまで、事業者に労働時間の把握を直接的に義務付ける法律は存在せず、行政通達において一定の方針が示されるに留まっていました。いわゆる「46通達」とよばれる「労働時間の適正な把握のために使用者が講ずべき措置に関する基準について」(平成13年4月6日基発339号)や、46通達をアップデートする形で発出された「労働時間の適正な把握のために使用者が講ずべき措置に関するガイドラインについて」(平成29年1月20日基発0120第3号)がそれに該当します。もっとも、労働基準法第108条で調製が義務付けられている賃金台帳については、労働基準法施行規則第54条1項により労働時間を記載することとされていることから、事実上、労働基準法が労働時間の把握義務を課しているということはできるでしょう。

このような中、職場における労働者の安全と健康を確保するとともに、快適な職場環境の形成を促進することを目的とする労働安全衛生法が、働き方改革を推進するための関係法律の整備に関する法律(いわゆる「働き方改革関連法」)により2018年に改正されました。改正後の労働安全衛生法では、2019年4月1日以降、客観的な方法により労働者の労働時間の状況を把握することが事業者の義務として新たに規定され(労働安全衛生法66条の8の3及び労働安全衛生規則第52条の7の3)、これにより、労働時間の把握については正式に法的な義務となりました。

改正後の労働安全衛生法が定める労働時間の把握義務は、主に労働安全衛生管理の観点からの要請です。このため、時間外割増や休日割増が適用除外となっているいわゆる「管理監督者」(労働基準法第41条2号が定める「監督もしくは管理の地位にある者」)についても、労働安全衛生法上は一般従業員と同様に労働時間を把握しなければなりません。そして、実際の労働時間に応じて、労働安全衛生法が定める適切な措置(長時間労働者への医師による面接指導の実施など)を講じる必要があります。

このように、未払賃金問題と深い関連性にある労働時間の把握はIPO(株式上場)審査において重要であることはもちろんですが、その前提として、法的な義務であることに十分留意しなければなりません。

労働時間の概念

労働時間の把握が法令上の義務であることはわかりましたが、では、そもそも労働時間とはどのような概念なのでしょうか。

まず、雇用関係における労働時間とは、一般的に、労働者が働かなければならない時間(所定労働時間)のことをいいます。例えば、労働時間(始業及び終業の時刻並びに休憩時間)は、就業規則において絶対的明示事項とされている(労働基準法第89条第1号)ほか、労働契約の締結に際しても、労働者に書面での明示が求められているところです(労働基準法第15条第1項及び労働基準法施行規則第5条第1項第2号等)。このようにして明示された労働時間について、労働者は、労働契約上働く義務を負うことになります。

他方で、労働安全衛生法が把握することを求めている労働時間とは、このような労働契約上の取り決めを前提として実際にその労働者がどれくらいの時間働いたか、という実労働時間になります。そして、この場合の労働時間とは、「労働者の行為が使用者の指揮命令下に置かれたものと評価することができるか否かにより客観的に決まるもの」であって、「労働契約、就業規則、労働協約等の定めのいかんにより決定されるべきものではない」(※三菱重工業長崎造船所事件)とされています。すなわち、就業規則や雇用契約書上で定められた労働時間(所定労働時間)とは関係なく、その労働者が実際に使用者の指揮命令下に置かれていた時間が把握すべき労働時間となります。

例えば、就業規則で始業時間が朝8時と定められている会社で、毎朝、朝7時50分から朝礼が行われていたと仮定します。この場合、始業時間の前に始まっているので一見すると労働時間ではないように思えますが、その時間が実質的にみて「使用者の指揮命令下に置かれていた」と判断される場合は、労働時間として賃金支払いの対象となります。具体的には、その朝礼への参加が管理者から義務付けられていたり、参加は一応任意としていながらも参加しないと人事評価で不利になるというような運用がされていた場合には、「使用者の指揮命令下」にあったと判断される可能性が極めて高くなります。他にも、業務開始前の制服への着替えのための更衣時間や、お昼時間の交代制の電話当番(いわゆる手待時間)、更には終業時間外に行われる全員参加の研修など、実質的に見て「使用者の指揮命令下」にあったと判断される可能性があるケースは非常に多いです。

このように、使用者の指揮命令下に置かれているかどうかは形式的に判断するのではなく、実態としてその行為が管理者から義務付けられていたのか、という観点で考える必要があります。本来であれば労働時間として把握すべき時間をカウントせずに運用しているような状況がある場合は、正確な労働時間が記録できておらず、結果として未払い賃金の発生に繋がることとなりますので、IPO(株式上場)審査の前に総点検することが望ましいでしょう。

労働時間の客観的な把握

改正後の労働安全衛生法では、「タイムカードによる記録、パーソナルコンピュータ等の電子計算機の使用時間の記録等の客観的な方法その他の適切な方法」で労働時間を把握しなければならない、とされています(労働安全衛生規則第52条の7の3)。基本的に、自己申告制による労働時間の把握は、どうしても客観的な方法をとることが難しい例外的な場合に限って許容されることとなります。

近年では、クラウド上で利用ができる勤怠システムが普及するなど、電子的に労働時間を把握することが容易になっています。例えば、直行直帰など事業所で働かない場合であったとしても、出先から勤怠システムにアクセスすることやパソコンを操作することは必ずしも不可能ではなく、仮にそのような状況が発生したとしても、同行している管理者がその場で現認して労働時間を把握することも一応は可能です。このため、近年において労働者の自己申告に頼らざるを得ないケースというのは極めて例外的な場合と考えられるため、あくまでも客観的な方法をとることを優先して正確な労働時間の把握に努めるべきでしょう。

どうしても自己申告制で労働時間を把握せざるを得ないような場合には、「労働時間の適正な把握のために使用者が講ずべき措置に関するガイドラインについて」(平成29年1月20日基発0120第3号)を踏まえた措置が必要です。すなわち、 自己申告を行う労働者や労働時間の管理者に対して自己申告制の適正な運用について十分な説明を行うことや、 自己申告により把握した労働時間と入退場記録等を突合して著しい乖離がある場合には実態調査を実施すること、更には、労働者が自己申告できる時間数の上限を設けるなど適正な自己申告を阻害する措置を設けないことなどが必要です。また、労働時間を管理する立場にある管理者に対して、労働時間管理に関する十分な教育を施すことも重要でしょう。

このように、自己申告制を取らざるをえない場合は、それを正当化できるだけの徹底した措置を講じる必要があります。このような措置を取らずに漫然と自己申告制を続けていた場合は、記録されている労働時間の客観性に重大な疑義が生じ、上場審査の際の大きなリスクとなるでしょう。

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