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丹波 栄蔵 Eizo Tamba

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丹波 栄蔵 Eizo Tamba

マネージャー  / 社会保険労務士

IPO(株式上場)の準備と労務デューデリジェンス(短期調査):未払賃金の発生

2024年6月7日

労務問題が原因でIPO (株式上場)が延期あるいは中止になる事例」では、新規上場審査で取引所が最も重要視する項目の1つとして「未払賃金問題」を挙げています。このコラムでは、IPO(株式上場)の準備に向けた未払賃金の解消について重要なポイントを解説します。

IPO(株式上場)準備会社において未払賃金の発生がないかの検討が重要な理由

グロース市場上場のために提出が必要な「新規上場申請者に係る各種説明資料」(有価証券上場規程施行規則第 231 条第 1 項第 4 号に規定する提出書類)では、賃金に関して以下の項目についての説明が要求されます。

  • 勤怠の管理方法及び未申告の時間外労働(いわゆるサービス残業)の発生防止のための取組み
  • 時間外及び休日労働並びにみなし労働時間制に係る労使協定の締結状況(協定の内容を含みます。)
  • 最近 1 年間及び申請事業年度における従業員に対する賃金未払いの発生状況(発生時期、期間、件数、金額)及びその後の顛末
  • 管理監督者の状況(部署ごとに、申請会社で定義(認識)している管理監督者(管理職)の数と、労働基準法で定めるところの管理監督者の数を一覧にして記載してください。なお、差異が発生している場合にはその理由も記載してください。)

以上の4項目は、「新規上場申請者に係る各種説明資料」の作成ガイダンスである「新規上場申請者に係る各種説明資料の記載項目について」(2024年4月1日改訂版)から、賃金に直接的または間接的に関係する部分を抜粋したものです。これを見るだけでも、取引所が未払い賃金について非常に高い関心を持って審査に臨んでいることがおわかりいただけると思います。

新規上場審査に向けては、少なくともこれら4項目については十分な説明ができるよう、未払賃金についての状況を徹底的に精査し、必要な措置を講じることが必要です。以下、具体的な留意点について確認します。

「勤怠の管理方法及び未申告の時間外労働の発生防止のための取組み」について

IPO(株式上場)に向けて、適正な賃金の支払いを実現し未払賃金の発生を防止するためには、少なくとも以下I〜IIIの3つの要素が満たされていることが必要です。

  • その事業所で有効な就業規則で規定された労働時間制度と、現実に運用されている労働時間管理の実態が合致していること。
  • 毎日の稼働について抜け漏れがない勤怠管理が行われており、客観的な方法で正確な労働時間の実績が把握されていること。
  • 当該労働時間の実績に基づいて、法定通りまたは法定以上の割増賃金が支払われていること。

Iについて、会社によっては、事業所や所属部署の違い、さらには社員種別によって異なる労働時間制度(変形労働時間制など)が適用されている場合がありますが、その運用は就業規則で定められた労働時間制に関する規定と合致させておく必要があります。

例えば、現場ではいわゆる「フレックス制」(労働基準法第 32条の3)が適用されているのにも関わらず、就業規則上は法定要件を欠いているような場合(例えば、始業及び終業の時刻をその労働者の決定に委ねる旨の記載がない場合など)や、労使協定が未締結の場合は、フレックス制が成立せず、通常の計算方法による割増賃金の支給義務が生じ、結果として未払賃金が発生する原因となります。

このように、就業規則上の規定と実際の労働時間管理の運用実態は常に一致させておく必要があります。

IIについて、労働時間の把握に関する事業者の義務については、労働安全衛生法66条の8の3及び労働安全衛生規則第52条の7の3が規律しています。これらの規定は、必ずしも賃金の適正な支払いを確保することを主眼とした規制ではなく、安全衛生管理の観点から労働時間の把握を要請するものですが、いずれにせよ、正確な労働時間の把握は事業者の法的な義務であることに留意しなければなりません。

実際の運用に際しては、厚生労働省の「労働時間の適正な把握のために使用者が講ずべき措置に関するガイドライン」(平成29年1月20日基発0120第3号)に沿った労働時間管理を講じることが望ましいでしょう。特に、労働者の自己申告による労働時間の把握が行われている場合は客観性が保たれていないと指摘される可能性が高まりますので、運用方法の見直しを検討すべきでしょう。

なお、時間外労働の未申告については、どのように防止を図るべきでしょうか。究極的には、PCログ管理ツール等を用いて業務用PCの使用時間を把握し、実際の勤怠記録と突合させて正しい労働時間が申告されているかを確認する、という方法を取ることが可能です。ただし、それだけでは十分とはいえません。例えば、割増賃金の支払いを抑制を目的として、勤怠の記録を思い止まらせるような不当な圧力(実態としてサービス残業を強制するような言動等)を管理者が現場にかけていないか、等についても丁寧な点検が必要となるでしょう。

IIIについて、給与計算の結果算出された賃金が、法定の割増率を満たしているか改めて確認をすることが必要です。割増率については直近でも法改正があり、2023年4月1日以降は、大企業・中小企業いずれも月60時間を超える残業に対する割増率が50%(法改正前は25%)となっており、当該法改正が計算結果に正確に反映されているかについては特に留意が必要です。

また、よくある間違いとして、労働基準法第41条2号が定めるいわゆる「管理監督者」に対して深夜割増(25%)が支払われていない場合が散見されます。管理監督者は時間外割増と法定休日割増の対象外ではありますが、深夜割増は対象外ではありませんのでご注意ください。

「時間外及び休日労働並びにみなし労働時間制に係る労使協定の締結状況」について

IPO(株式上場)の際は、時間外労働・休日労働やみなし労働時間制(特に裁量労働制)に必要となる労使協定が適正に締結されているかについても十分な確認が必要です。

この場合、労使協定が締結されているかどうかというそもそもの事実関係を確認するべきことは当然のことながら、最も留意すべきは、労使協定の締結当事者が労働組合ではなく「過半数代表者」(労働基準法施行規則第6条の2)であった場合に、当該過半数代表者の選出プロセスが法定要件(労働基準法施行規則第6上の2)を満たしているか、という点です。

具体的には、過半数代表者は、①いわゆる「管理監督者」(労働基準法第41条第2号)ではないこと、②投票・挙手等の方法により選出されていること、③使用者の意向に基づき選出されていないこと、の要件を満たしていることが必要です。このうち、特に気をつけたいのは、②投票・挙手等の方法により選出されていること(いわゆる民主的選出の要件)が確実に確保されているかという点です。

例えば、過半数代表の選出時に、実際には投票をしていないのにも関わらず候補者が過半数代表として選出された旨を一方的に社内に公表していた場合や、一応投票はしているがその手続きに重大な瑕疵がある場合(形式上は投票とはしているが投票できる社員が不当に限定されていた場合や、投票をしなかったことを一律的に賛成とみなして処理するような場合など)は、法定要件を満たしていないとして過半数代表の法的地位が否定される可能性があります。

この場合、例えば時間外労働・休日労働については当該過半数代表が関与した36協定が無効となり、全ての時間外労働・休日労働が違法状態となることから、重大なコンプライアンス上の問題が生じてしまいます。なお、36協定が無効となった場合であっても割増賃金の支払い義務が消滅する訳ではなく、時間外労働が発生しているのであれば必ず割増賃金は支払わなければなりません。

「最近 1 年間及び申請事業年度における従業員に対する賃金未払いの発生状況及びその後の顛末」について

未払賃金が実際に発生していたことが判明した場合には、 IPO(株式上場)に向けて速やかに清算をした上で、「発生時期、期間、件数、金額」について正確に報告できるよう記録を取りまとめておくことが必要です。この作業については非常に労力がかかることはもちろん、計算上の正確性も求められますので、できる限り早期に着手することが必要です。

未払賃金については、IPO時に、過去3年分の清算が完了していることが必要です(現職の従業員だけではなく、退職者も含みます)。これは、労働基準法115条及び労働基準法附則143条3項の定めにより、退職手当を除く賃金請求権の消滅時効が当分の間3年(本来は5年)とされていることが根拠となっています。なお、退職手当の請求権の消滅時効は5年ですので、退職手当に未払いがある場合は過去5年分について清算が必要です。

なお、未払賃金の清算時の留意点としては、対象となる社員にその他の未払い賃金債権が存在しない旨を必ず確認し、その旨を客観的な記録として残しておくということが非常に重要です。未払賃金を清算したとしても、場合によっては、会社が把握していない時期の時間外労働や休日労働について事後的に突然主張され、その部分についての支払いが完了していないことを争われる可能性があります。

このような紛争が新規上場審査の直前に表面化してしまうと大きなリスクとなるため、その他の未払賃金債権が一切存在しないことは確実に担保しておく必要があります。実務上は書面でやりとりすることが多いですが、文面については弁護士等によるリーガルレビューを行い、リスクコントロールに万全を期すことが必要です。

「管理監督者の状況」について

いわゆる「管理監督者」とは、労働基準法第41条2号が定める「監督もしくは管理の地位にある者」のことを指します。管理監督者には、労働基準法上の労働時間、休憩、休日に関する規定が適用されないことから、割増賃金の支払いもなされません(深夜割増は除く)。

未払賃金との関係では、管理監督者は大きな論点の1つとなります。すなわち、会社が認識している管理監督者が、実際には法的な管理監督者の条件を満たしておらず、結果として割増賃金が未払いとなってしまう、というケースです。

この問題の難しさは、労働基準法第41条2号の「監督もしくは管理の地位にある者」が具体的に意味するもの(すなわち、管理監督者の定義)が法文上必ずしも明らかにされていない、という点にあります。

この点、管理監督者の定義については、行政通達や裁判例の積み重ねにより一定の考え方が示されているため、実務上はこれらを参考にすることが有益です。例えば、行政通達(昭和63・3・14基発150号)においては、管理監督者の範囲について「・・・労働条件の決定その他労務管理について経営者と一体的な立場にある者の意であり、名称にとらわれず、実態に即して判断するべきものである。」とされているほか、裁判例においては、①事業主の経営に関する決定に参画し、労務管理に関する指揮監督権限を認められていること、②自己の出退勤をはじめとする労働時間について裁量権を有していること、および③一般の従業員に比しその地位と権限にふさわしい賃金(基本給、手当、賞与)上の処遇を与えられていること、が必要な要件とされています。(菅野和夫『労働法』第十二版491頁)

IPO(株式上場)を見据えると、自社の人事労務管理が適切に運用されているかは、これらの行政通達・裁判例を踏まえて判断をしておくことが得策だと思われます。社会保険労務士のアドバイスも得ながら、改めて社内体制の見直しを行うことが望ましいでしょう。

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