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私が公認会計士を目指した理由

本日1月15日でなんとなく節目の40歳になりますので、私が公認会計士を目指した理由について書いてみたいと思います。上記の写真は約20年前のゼミ飲みのもので、左上の目つきの悪い男が私です。私の下の女性も公認会計士となり今弊社のお仕事を手伝ってくれており20年の付き合いです。皆それぞれの分野で活躍しています。

さて、20年前の出来事について思い返してみると私が北海道大学の2年生であった2001年、札幌市は「サッポロバレー」というITベンチャー関連のビジネスで盛り上がっていました。札幌駅北口から北海道大学周辺にかけてと札幌テクノパークが舞台となりました。

しばしば、カフェでIT企業の経営者が集まり、そこに大学生が参加して色々と議論を交わし交流をするというようなことが行われていました。私は文系の学生でしたが、北海道大学には優秀な理系人材がたくさんいたため、彼らの頭脳を結集してITの分野で起業をしてみたいという思いがありました。

ですが、当時はそこまで高い志もなく、漫然と日々を過ごしておりました。学習塾でのアルバイトに日々明け暮れているうちにあっという間に大学3年生になってしまいました。

大学の学部は経済学部だったのですが、ミクロ経済学・マクロ経済学という学問的な内容がどうも好きになれませんでした。今となってはこれら経済学の知識はとても役に立っていますが、当時は本当に苦手でした。

周りのみんなが就職活動を始めていく中で、自分は何がやりたいのかわからず悩んでいました。特に就職したい企業もなくどうしようか考えていた時に、大学の授業で会計学や経営学に出会いました。きっかけとなったのは簿記でした。簿記2級から始めましたがとても面白くて、この分野をもっと極めたいと思うようになりました。

「会計学&経営学なら、自分の知識や経験で誰かの役に立つことができるのではないか?」そう思うようになり公認会計士を目指しました。恥ずかしながら公認会計士が具体的にどのような業務を行っているのか等についてはあまり理解しておりませんでした。

その時には非常に浅はかで、「公認会計士になれば税理士にもなれる」、「公認会計士になれば年収1000万円以上」という話を聞いて驚き勉強を頑張ろうと思ったというのもあります。

幸運なことに所属していたゼミが監査論のゼミでして、教授が公認会計士の受験を応援してくれる方でした(その教授はその後公認会計士試験の試験委員となりました)。

記憶は若干あいまいですが、教授に「前川くん会計士試験に一度落ちるといくら損すると思う?」と聞かれまして、「初任給500万くらいですか?」と答えたら「違う、最後の年収3000万だ!」と言われて頑張って早く合格しようとなったのを思い出します。

定年まで監査法人にいたらという話であって、今は時代も違いますがそれで奮闘させてくれたことには感謝しています。結果的には、IT産業ではなくプロフェッショナルサービスで起業しましたが、起業したいという思いは形を変えて実現することになりました。

昨年末に亡くなった父の遺品を整理していた時に、私が2003年に公認会計士試験に合格した時にLECで書いた合格体験記が見つかりました(この写真も目つきが悪いですね…)。父は私が公認会計士試験に合格した事を誰よりも喜んでくれました。応援してくれていた父のためにも生涯公認会計士としてビジネスマンとして頑張りたいと思います。

さて、公認会計士の仕事は「会計」というビジネスのインフラをつかさどる仕事です。それはITやクロスボーダーというテーマで形を変えつつもこれからも重要な産業であると思います。単純作業はITやAIに代替されていくのはもちろんですが、人により提供されるべきサービスは残っていくと思うので、「人間的な公認会計士」を引き続き個人としてもファームとしても追求してまいりたいと思います。

これから公認会計士を目指す方、税理士を目指す方に、「会計のすばらしさ」を伝えていくことや、「会計業界の魅力」を増し、メディアを通じてお伝えしていくことも1つの自分のミッションとしたいと考えています。一方で40歳を迎え、これまで「会計」については結構やってまいりましたので、これからの人生においては「経営」にもしっかりと軸足を置いていきたいと思います。皆様、引き続きどうぞよろしくお願いいたします。

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2021年年初挨拶

 

皆様、新年あけましておめでとうございます。本日より2021年のお仕事がスタートしました。以下のように年初の挨拶をさせて頂きました。コロナのためメッセージにて。

昨年は皆様も会社も初めての経験をたくさんした1年だったのではないかと思います。その中で私は「絆」の大切さを強く感じた 1 年間でした。これまでの社内外の方々との間に築けていた信頼関係のお陰で2020 年を乗り越えることができました。会えなくてもお互いのことを尊重し、相手の気持ちになり全力を尽くす。その繰り返しで助け合いながらこれからも難局を乗り越えていけると思います。
また昨年はこの新しい環境下でたくさんのメンバーにジョインしていただきました。2021 年は更なる世の中のパラダイムシフトとともに当社も大きく変革を遂げる 1 年となります。これまでの常識が常識ではなくなることが続いていくことでしょう。新しく加わったメンバーと「絆」を深め、新たなことに果敢にチャレンジしつつ、変化を大いに受入れ発展してまいりましょう。本年もどうぞよろしくお願い致します。

本年もRSM汐留パートナーズをどうぞよろしくお願いします。

2021年1月5日
RSM汐留パートナーズ
CEO 前川研吾

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立つ鳥跡を濁さず…教育にお金を惜しまなかった真面目な父

2021年新年あけましておめでとうございます。本年1回目のブログで最愛の父の旅立ちについて書こうと思います。

昨年2020年12月28日早朝、父前川紀秋が72歳で死去いたしまいた。病名は悪性リンパ腫で4年程闘病していました。12月30日に通夜、そして31日に葬儀と2020年いっぱいで自身の人生を完結し、子供たちに極力迷惑をかけないようにスケジューリングしたのでしょうか。仕事始めの日から通常の生活に戻ることができそうです。

父への感謝の思いについて棺に手紙を入れようとも思いましたが、ブログにしていつでも見てもらえるようにしておきたいと思います。生前私のブログの更新を楽しみにしてくれていました。RSM汐留パートナーズの発展を楽しみにしてくれていました。私が公認会計士に合格した時の書類も色々保管してくれていました。会社のパンフレットや私が執筆した書籍もすべて大切にしてくれていました。

上記の写真ように一瞬兄弟グレてしまって迷惑をかけましたが、おかげさまで一応恥ずかしくない人生を歩んでいるかなと思います。

病気と歩んだ人生

父は19歳の時に脳腫瘍になりました。釧路の病院ではもう治療ができず匙を投げられ、もう助からないと泣いていたとの事でした。ですが札幌の病院で良い先生に出会い1年越しの闘病生活を経て回復し仕事に復帰することができました。

その際の手術で左半身に一部麻痺が残り、また左耳が聞こえなくなってしまいました。一見そんな様子を見せずに普通に生活をしていたため、私は同居していた高校生くらいまでそのことをよく理解しておらず、あまり機敏に動けなかったり、呼んでも気付かなかったり、テレビの音量を大きくして聞いている父に辛くあたってしまったのを後悔しています。

ちなみに、母はど近眼で遺伝で私もど近眼になってしまったことから、小学校低学年のころから眼鏡をかけていまして、「お母さんのせいで目が悪くなったしまった」と、本当に心ない言葉を発してしまったのを覚えていますし後悔しています。子供って無邪気ゆえに残酷です。

1つの会社で勤め上げる

父は高校卒業後18歳で就職した釧路ガス㈱に定年まで45年以上勤めました。自分も人生で2つの会社だけですが1つの会社で勤め上げるというのは実に難しい事のように思います。色々な人間関係や配置転換等もあるでしょうし、忍耐も必要だと思います。家族のために貧困を乗り越えるため頑張って働いてくれました。そして病気した父を定年まで勤めさせてくれて本当に素晴らしい会社にお世話になりました。

ガス会社ということで、地震がとても多い釧路市では仕事は本当に大変だったと思います。確か震度3か4以上の地震では会社に全員駆けつけてすべてのガス管の点検をしないといけなかったとか。

1993年1月15日釧路沖地震、1994年10月4日北海道東方沖地震、2003年9月26日十勝沖地震と、3回も震度6の地震が襲いました。特に釧路沖地震は私の12歳の誕生会をしている真っ最中…家族も大パニックなのに父は会社に向かって1か月間復旧のため帰ってくることができませんでした。

ガスは長期間使用停止となり、私たち家族はカセットコンロでインスタントラーメンを食べながら父の帰りを待ったのを覚えています。

貧しくも教育にお金を惜しまなかった

父は教育に対してお金を惜しまず使ってくれました。本当は自身も大学に行きたかったようですが、家が貧しく長男として高校卒業後すぐに就職することにしたようです。読書が好きで色々な事を知っている父でした。

北海道の自然に囲まれていたため、貧しくも海で蟹を釣って毎日蟹三昧、鮭を釣ってサーモンといくら丼、その他キノコ狩り、山菜取り、ワカサギ釣りと自然の食材で今思えば超贅沢な暮らしをしていたようにも思います(笑)

さて、小学校の時は勉強をするのが嫌いで全然良い結果を残せず、私はどちらかというとクラスでも成績は中の下くらいでした。中学校になり転校した先の学校で勉強する事の面白さに気づくチャンスがあり、そこから頑張ることができました。中学3年の時には塾にも行かせてもらいました。

お陰で兄弟3人とも高校は釧路市の進学校に行くことができました。高校3年生ではある程度勉強を頑張り北海道大学を受験しました。大学受験の合格発表を見るためになぜか釧路から札幌に電車で向かっていました。でも結果は自宅にちゃんと郵送されていました。開封して合格証書を見た父は、息子に一刻も早く合格を伝えたいと思い、電車(特急おおぞら)に電話してきました。

電車に電話をかける方法は謎でしたが、電車の車内放送で呼び出されて電話を取ると「研吾!合格しているよ!」と伝えられ、私は嬉しさのあまり電車の中で号泣したのを覚えています。北海道大学に合格した時と公認会計士試験に合格した時は人生で同じレベルで嬉しかったです。

そして私は前川家で初めて大学に行かせてもらうことになりました。兄弟三人国立大学を卒業することができました。その後私は公認会計士、弟は税理士になりました。従弟も公認会計士になり続きました。父は教育に対する意識が非常に高い人でそしてそれに応えたくて頑張りましたし、結果を出すと自分の事のように喜んでくれました。教育をしっかり受けたことにより、私達は自分たちの家族の生活を少しずつ楽にすることができるようになりました。

定年退職後に父は社会保険労務士の試験を受験していました。合格はかなわなかったのですが、専門学校のチューターには「息子さんたちは難関の資格に合格しているので頑張ってくださいね」と言われ3回ほど受験していました。

旅行が好きだった父

海外旅行は北海道在住者にとっては夢のまた夢。私達が大きくなるまではほとんど旅行に行っていなかったと思います。釧路空港から羽田空港まで行った後、成田空港から海外に出発しないといけないため、お金も時間も結構かかります。

父は定年後の数年間で色々な所に旅行に行きました。ハワイ、タイ、ベトナム、カンボジアetc. 1人でツアーに申し込んでベトナムに行っていた時は驚きました。以下の写真はハワイに家族旅行した時の写真です。

願わくばもう少しだけ健康な時間があればよかったなと思います。一生懸命仕事をしていてこれから自分の時間とお金を自由に使えるという期間があまりにも短すぎました。

自分の人生についても考えさせられました。定年後の健康寿命というのは意外と短いです。ほんの数年だったんじゃないでしょうか。もう少し色々一緒に行ければよかったです。

立つ鳥跡を濁さず

2020年12月20日に72歳の誕生日を迎えほっと一息ついたのか。私はたまたま早めにPCRの陰性結果を持ち25日の夜から釧路に帰省していました。前々日、前日と2回、滞在していた終末医療機関のホスピス病棟で15分ずつ会うことができました。

両耳が聞こえなくなり、目も片方しか見えなくなっていましたが、なんとか自分が来たことを認識して軽く筆談しました。安心させてしまったかな。父は誕生日から8日後の12月28日に亡くなりました。28日は早朝ホスピスから連絡を受けて駆け付けましたら、まだ温かいし寝ているのかなと思って母と起こしていましたが眠るように亡くなっていました。

父は年末年始休みで家族が集まれるようにしてくれました。コロナのためになかなかこの1年間家族が集まることが許されませんでした。年を越してほしかったですが、ある意味計画的な最後で30日通夜、31日葬儀と、年内にきっちりやり残すことなく旅立っていきました。亡くなる前には、自身の資産の整理や配分、解約すべきもののIDとPasswordをしっかりとまとめていました。

真面目で几帳面、そして家族思いだった父さん。本当にありがとう。そしてお疲れ様。これからも頑張るので天国から見ていてください。

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2020年も大変お世話になりました。

早いもので今年2020年が終わってしまいますね。皆様お1人お1人初めての経験をたくさんした1年だったと思います。

その中で「絆」の大切さを身に感じた1年間でした。これまでお世話になった社内外の方々との間に築けていた信頼関係のお陰で何とか乗り越えることができました。

会えなくてもお互いのことを尊重し、相手の気持ちになり全力を尽くす。その繰り返しで助け合いながら乗り越えていけると思います。

本年は大変お世話になりました。来年も変わらぬご愛顧を賜りますようお願い申し上げます。どうぞ良いご休暇をお過ごしください。

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昨年の忘年会の写真

こちらは昨年度の汐留パートナーズの忘年会の写真です。

今年はコロナの影響で会社のすべてのイベントが中止されてしまいましたが、来年はまた明るく笑って自由に集まれることを祈っています。

急速にリモートでのビジネス環境が構築されつつありそれはそれでとても良いことですが、クライアントの皆様にもリアルに会える選択をいつでも取れる状況が一番ですね。

皆様くれぐれも感染にはお気をつけください。早いものでもう1年が終わります。コロナっていうワードを毎日数百回聞きましたね…。来年の今頃はコロナを懐かしがるくらいに世の中が復活していればと思います。

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会計業界のトレンドと将来予測

2020年日本の中位年齢は48.9歳、それに対して例えばアメリカは38.6歳、フィリピンは25.4歳。全世界は30.9歳となっています(世界の統計2016(総務省統計局)より)。

会計業界のトレンドとして海外の良い記事を見つけましたのでサマリーをご紹介。海外から学ぶというよりは今後の世の中を作っていくマジョリティである若い人たちの考えに継続的に触れていく事が重要であると思います。もはや当たり前の記載も多いので確認も兼ねて。

①電子化(Digital Revolution)
多くの会計人がクライアントの財務や税務に関する課題解決のためコミュニケーションに時間を割くようになり、スマートフォンを用いて会計関連サービスを提供する。ペーパーレスが進んでいく。

②人工知能(Artificial Intelligence;AI)
低コストで高い生産性を達成するために多くの会計人がAIに関する投資をしているし今後もますます増加していく。今後3年間で我々の業務の一部は、AIをはじめとした機械学習に変わっていくし多くの会計人がそれを楽しみにしている。

③クライアントとの直結(Immediate Connections)
会計事務所とクライアントがデータを共有することでビジネスの透明性も高め、一層セキュアな状態を実現することも可能となる。

④会計処理の自動化(Automated Accounting Processes)
リアルタイムな請求処理や月次試算表作成により、データが分類され利用可能となり、意思決定のスピードが速くなっていく。

⑤データ分析(Data Analytics)
今後の会計人は、マネジメントの意思決定に資する情報を正確に提供するのみならず、アドバイザーとしてデータ分析のスキルを身に着けておかなければならない。

⑥アウトソーシング(Outsourcing Accounting Functions)
多くの会計事務所がアウトソーシングサービスを提供するようになり、クライアントはコアビジネス活動へ時間を投下し成長性や生産性にフォーカスする。RPA、記帳、税務申告、口座管理、サイバーセキュリティ等の領域へ大きな影響を及ぼす。

⑦ブロックチェーン(Block chain)
ブロックチェーンの技術はあらゆる産業に関連してくる。会計業界への関わり方も様々ではあるが正確に時系列に取引を記録しておくことが可能となり、会計帳簿の作成や更新と深く連携してくることは間違いない。この領域に対する投資や学習は不可避。

⑧アドバイザリーサービス(Advisory Services)
会計人も今後は成長や利益獲得のためのアドバイスをしなければならなくなってくる。定型的な業務や手作業は本当になくなってくるため、財務に関するアドバイスをサービスとして提供する必要がある。

⑨ビッグデータ(Big data)
ビッグデータはビジネスにおいてとても重要となり、そのうち会計領域に関するデータの読み取りについては会計人の得意な領域になる。ビックデータの分析や最大利用について取り組める会計人が求められる。

⑩オフショア・遠隔採用(Offshore Staffing and Remote Work Setting)
必要なスキルを有する人材を採用していくことは今後もますます難しくなってくるため、オフショア・遠隔採用を通じて候補者を全世界に広げることが重要である。

自身の備忘も兼ねて。何年かしてからこのブログを見た時に予想通りの未来になっているでしょうか。変化に柔軟に対応していきたいと思います。

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11/10 International Accounting Day(国際会計の日)

11月10日は”International Accounting Day 国際会計の日”です。日本ではあまり知られていませんが1494年にフランシスコ修道会の修道士であるLuca Pacioliさんが複式簿記の書籍を出版した記念日とのことです。

PKF ShidomeとしてInternational Accounting Dayを祝えることを誇りに思っています。本日はPKFの歴史と価値観についてご紹介したいと思います。パンネル・カー・フォースター(PKF)は、1969年にオーストラリア、カナダ、英国、米国の4つの会計事務所が協力して国際的な会計領域に関する協会を設立したことをきっかけに創設されました。

PKFがコミットしているのは、クライアントに一貫した専門家としての経験を提供すること、そして、私たちが何をどのように提供しているのか、そしてpassion、teamwork、clarity、quality、ntegrityの5つからなる私たちの行動の原動力となる価値観について、世界各国の事務所が共通の理解を持つことです。

2020年には、GlobalDataのInternational Accounting Bulletinの世界調査に基づいて、PKFは世界で15位にランクされ、イギリスでは11位のグローバル会計事務所にランクされました。

PKFネットワークの224のメンバーファームは、5つの地域の150カ国でPKFブランドで活動しています。2万人の専門家を擁し、世界中の独立したメンバーファームの経験豊富で信頼できるアドバイザーで構成されており、コンプライアンス規制を踏まえ会計・監査・税務等のプロフェッショナルサービスを通じてクライアントのご支援をしております。

さて、話は戻りますが個人的には簿記は大好きです。DX化が進み文字列としてデータを収集していくならば複式という概念や振替伝票のようなものはエンジニアの皆様にとっては厄介な代物かもしれませんが、私には公認会計士を志すきっかけをくれたものなので密かに大切にしようと思います。

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「幸せのかたち」は人それぞれ

RSM汐留パートナーズには「汐留フィロソフィ」なるものがあります。そのフィロソフィの頂点に「幸せ」や「Ikigai」をおいています。経営理念の上位概念です。なぜか。今日はそのお話をブログで書いてみたいと思います。

時々会社の掲げる目標として「日本一になる」「売上を上げる」「1000人の会社になる」というものがあります。ですが、その会社が日本一になっても世界一になっても、売上が社員が増えても、そこに属している従業員とその家族(広義の家族)が幸せではなければあまり意味はありません。

それでも社会に貢献するサービスを生み出しているんだからと言われることもありますが、RSM汐留パートナーズでは、一生に一度っきりの人生、皆さんの大切な時間を共有していただいているので、皆さん1人1人が主役になってほしいと思っています。

従業員と家族の幸せを大切にするRSM汐留パートナーズは、フィロソフィの頂点の「目標」「幸せ」を掲げています。なぜか?それは偉大な先人の経営者たちがどんなに考えても、これだっていう普遍的な経営理念は見つかりませんでした。

なぜなら、「幸せのかたち」は「千差万別」であり、そもそも統一するべきものではないためです。これを無理やり統一しようとすると、ナチス・ドイツの思想のようなおかしなことになります。ダイバーシティ(多様性)を何よりも尊重すべきです。

しかしながら、一方で私たちは企業という組織体に属し活動をする上で、皆のベクトルが同じ方向を向き力を合わせて目標に向かって進むことで、1+1=2ではなく3にも4にもなっていくということを知っています。

すなわち組織化してビジネスを行うことのパワーのすごさをよく理解しています。したがって、皆がお互いに否定することのできない、皆が賛成できる目標である「幸せになる」をフィロソフィの頂点に掲げています。幸せになりたくない人はいないはずです。例示として、「笑顔」「自己実現」「充実感」「家族」「仲間」「楽しさ」「やりがい」を上げています。他にもいろいろとあると思います。健康、田舎暮らし、自然、睡眠、自由な時間、趣味、愛、学歴、尊敬、お金、名誉・・・

あくまでも幸せが「例示」であるのは、「幸せのかたち」は人それぞれだからです。どうしても人は自分の幸せの枠に人を当てはめようとしてしまいます。また自分の幸せを人に認めてもらおうとすることもあります。

ですが幸せのかたちはひとつではありません。でも幸せになりたくないという人はいないと思います。その幸せのかたちは人それぞれです。RSM汐留パートナーズのメンバーには、「人の幸せを自分の幸せとして受け入れる」人になってほしいと思います。

「お客様の幸せは自分の幸せ、同僚の幸せも自分の幸せ」

こんな「不思議なこと」と思われるかもしれないことを、RSM汐留パートナーズでは本気で考えています。フィロソフィ推進委員会というチームがあり活動をしています。

多くの士業は「自分が何ができるか」(プロダクト・インの発想)を考えがちですが、そうではなく「お客様が何を望んでいるか」(マーケット・インの発想)という視点を持つことが大切です。どんなにAI(人工知能)が台頭しても必ず生き残れるファームでありたいと思います。RSM汐留パートナーズに関心をもっていただき、ご入社を検討いただく方々にも知ってほしいと思います。

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Twitterを始めてちょうど1年。

Twitterを始め1年になりました。Twitterを始めるにあたってはお作法を含め諸先輩方からたくさんアドバイスを頂き始めました。おかげで特段炎上することもなく平和に過ごせております。

個人的には役員を務める会社がIPOしまして上場審査中SNSを控えるべき状況もありました(過激なことは全く書いていませんが)。

良い出会いもたくさんありました。Twitterを通じてお仕事のご縁を頂いたり、ご入社頂くきっかけとなったりしました。皆様ありがとうございます。

引き続きよろしくお願い致します!

 
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仲間達で熊を捕獲して一緒に記念撮影

帰省した際に皆で古い写真を見ていましたら、私の曾祖父(一番右のどや顔の人)の仲間達で熊を捕獲して一緒に記念撮影をした写真が発見されました。

1926年(大正15年)の写真なので94年前です。剥製の熊だと思いましたが捕獲して写真を撮ったようです。さすが北海道。曾祖父の隣のおじさんが三井物産の服を着ているのが気になりました。

私の曾祖父である前川久吉は1887年徳島県上勝町生まれです。1959年に70歳ちょっとで亡くなりましたが小さな体の前川家では異彩を放つ大柄な男(176㎝)だったようです。お酒が大好きで最後の日もたくさん飲んで家にたどり着いて玄関で倒れて亡くなったとのことです。

1900年ちょっとに徳島県から北海道の道東へ入植し開拓を頑張りました。当時きっと北海道にすばらしいチャンスがあると思って、父母やその他の家族と別れ船で渡ってきたのだと思います。その父(私の高祖父)前川利吉は1927年に亡くなっていますが、きっと送り出した息子に会うことはなかったことでしょう。

ちなみに時代背景として当時は世界中への移住がブーム。1868年はハワイ移民の元年。1869年は蝦夷地が北海道へ改称。1870年は樺太(サハリン)開拓使の設置。1900年前半はブラジル・ペルー・フィリピンへの移住が急増。北海道への移住でなければ日本人になっていなかったかもしれません。

家も道もなく食物も育たない極寒の地北海道で、曾祖父は最初は「ここはまじでヤバい場所だ…」って思ったことでしょう。頑張って皆が繋いでくれたので今の自分がいるので先祖に感謝。一応後世のため記録しておこうと思います。

【繋いでくれた人達】
前川佐津次(その上)1806~1868/2/2(62歳) 
前川利吉(高祖父)1845/2/3~1927/2/25(82歳)
前川久吉(曾祖父)1887/6/11~1959/10/2(72歳)
前川吉秋(祖父) 1922/11/24~2008/7/4(85歳)
前川紀秋(父)  1948/12/20~2020/12/28(72歳※)
前川研吾(私)  1981/1/15~

※2021年1月1日追記:父は2020年12月28日に他界

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