偉大な先祖?竹前権兵衛・小八郎兄弟
- 2019.02.20
- プライベート・その他
ものすごく個人的なことなのでCEOブログに書くべきことではないのですが、ブログは私のライフワークでもあり日記でもあるので、記録しておきたいと思います。
最近、偉大な先祖がいたという言い伝えがあり興奮しています。もちろん正確かどうかはわからないのですが、、母方の先祖に昔々竹前権兵衛・小八郎という兄弟がいたようです。インターネットで調べても少し出てくる人です。祖母から漏れ伝え聞いた内容が本当であり書籍も出版されていました。潟(湖)を干拓し、水田造成をもくろみ、一身を賭して干拓事業を遂行した兄弟です。
竹前 権兵衛(たけまえ ごんべい)
1679年~1749年。父は竹前治郎助。家は代々信濃(現在の長野県)高井郡米子村の庄屋で、硫黄採掘・販売業を営む。紫雲寺潟の干拓を弟の小八郎の死後引継ぎ、1733年頃に完成させた。幕府は潟を全面収公して、権兵衛には無地代で500町歩を与え、権兵衛はこれを協力者と分かち、残り200町歩ほどを開発して米子、中島、竹島、苔実の4つの新しい村を立てその庄屋となった。
竹前 小八郎(たけまえ こはちろう)
生年不詳~1729年。権兵衛の弟。権兵衛に先んじて紫雲寺潟を視察し、自らの名で幕府に紫雲寺潟開発の願書を出す。開発許可を受け干拓を進める道半ば若くして亡くなる。小八郎の意思は兄権兵衛と協力者達が引継ぎ、干拓は完成する。
竹前権兵衛は、享保5年(1721年)に鷹目硫黄という黄色くキラキラした硫黄を江戸幕府に3900両分お買い上げいただいたようです。1両はいくらか換算は難しいようですが江戸時代の1両≒約25万円とすると約10億円です。
1721年 竹前権兵衛が米子硫黄鉱山で鷹目硫黄を掘り出し、江戸幕府から大金を得る。
1726年 弟である竹前小八郎の名で幕府に紫雲寺潟開発願書を提出。
1727年 幕府より竹前小八郎に開発許可が下りる。
1728年 協力者を得て干拓を進める。領民との紛争勃発。
1729年 竹前小八郎夭折、竹前権兵衛が開発の後を継ぐ。
1731年 領民との紛争解決。
1732年 干拓が完成する。
30,000人余りを雇用し、潟の水を日本海に流して耕地にするという大型公共工事みたいなものを、自腹でやるなんてなんてアグレッシブなご先祖様でしょう(もちろん後でしかるべきリターンは得られたのでしょうが)。最初権兵衛は硫黄鉱山の経営を続けるべく長野県にとどまって弟小八郎にこのプロジェクトを任せたのですが、途中で小八郎は亡くなってしまいました。新潟に移住してプロジェクトをやり遂げたご活躍を尊敬します。
Wikipediaにも「紫雲寺潟」に「信州出身の竹前権兵衛、小八郎兄弟が自費での紫雲寺潟干拓を幕府に許可され」「当時の日本で多く見られた町人請負新田のなかでも最大規模」とありました。
私はその苗字を承継しておりませんが、もしご先祖様だと思うと不思議な感覚になります。新潟県紫雲潟干拓事業の犠牲者を弔うため竹前権兵衛が建立したこの紫雲寺という寺院に、今も権兵衛・小八郎兄弟のお墓があるようなので、少し調べてからお墓参りに行きたいと思います。