立つ鳥跡を濁さず…教育にお金を惜しまなかった真面目な父

2021年新年あけましておめでとうございます。本年1回目のブログで最愛の父の旅立ちについて書こうと思います。

昨年2020年12月28日早朝、父前川紀秋が72歳で死去いたしまいた。病名は悪性リンパ腫で4年程闘病していました。12月30日に通夜、そして31日に葬儀と2020年いっぱいで自身の人生を完結し、子供たちに極力迷惑をかけないようにスケジューリングしたのでしょうか。仕事始めの日から通常の生活に戻ることができそうです。

父への感謝の思いについて棺に手紙を入れようとも思いましたが、ブログにしていつでも見てもらえるようにしておきたいと思います。生前私のブログの更新を楽しみにしてくれていました。RSM汐留パートナーズの発展を楽しみにしてくれていました。私が公認会計士に合格した時の書類も色々保管してくれていました。会社のパンフレットや私が執筆した書籍もすべて大切にしてくれていました。

上記の写真ように一瞬兄弟グレてしまって迷惑をかけましたが、おかげさまで一応恥ずかしくない人生を歩んでいるかなと思います。

病気と歩んだ人生

父は19歳の時に脳腫瘍になりました。釧路の病院ではもう治療ができず匙を投げられ、もう助からないと泣いていたとの事でした。ですが札幌の病院で良い先生に出会い1年越しの闘病生活を経て回復し仕事に復帰することができました。

その際の手術で左半身に一部麻痺が残り、また左耳が聞こえなくなってしまいました。一見そんな様子を見せずに普通に生活をしていたため、私は同居していた高校生くらいまでそのことをよく理解しておらず、あまり機敏に動けなかったり、呼んでも気付かなかったり、テレビの音量を大きくして聞いている父に辛くあたってしまったのを後悔しています。

ちなみに、母はど近眼で遺伝で私もど近眼になってしまったことから、小学校低学年のころから眼鏡をかけていまして、「お母さんのせいで目が悪くなったしまった」と、本当に心ない言葉を発してしまったのを覚えていますし後悔しています。子供って無邪気ゆえに残酷です。

1つの会社で勤め上げる

父は高校卒業後18歳で就職した釧路ガス㈱に定年まで45年以上勤めました。自分も人生で2つの会社だけですが1つの会社で勤め上げるというのは実に難しい事のように思います。色々な人間関係や配置転換等もあるでしょうし、忍耐も必要だと思います。家族のために貧困を乗り越えるため頑張って働いてくれました。そして病気した父を定年まで勤めさせてくれて本当に素晴らしい会社にお世話になりました。

ガス会社ということで、地震がとても多い釧路市では仕事は本当に大変だったと思います。確か震度3か4以上の地震では会社に全員駆けつけてすべてのガス管の点検をしないといけなかったとか。

1993年1月15日釧路沖地震、1994年10月4日北海道東方沖地震、2003年9月26日十勝沖地震と、3回も震度6の地震が襲いました。特に釧路沖地震は私の12歳の誕生会をしている真っ最中…家族も大パニックなのに父は会社に向かって1か月間復旧のため帰ってくることができませんでした。

ガスは長期間使用停止となり、私たち家族はカセットコンロでインスタントラーメンを食べながら父の帰りを待ったのを覚えています。

貧しくも教育にお金を惜しまなかった

父は教育に対してお金を惜しまず使ってくれました。本当は自身も大学に行きたかったようですが、家が貧しく長男として高校卒業後すぐに就職することにしたようです。読書が好きで色々な事を知っている父でした。

北海道の自然に囲まれていたため、貧しくも海で蟹を釣って毎日蟹三昧、鮭を釣ってサーモンといくら丼、その他キノコ狩り、山菜取り、ワカサギ釣りと自然の食材で今思えば超贅沢な暮らしをしていたようにも思います(笑)

さて、小学校の時は勉強をするのが嫌いで全然良い結果を残せず、私はどちらかというとクラスでも成績は中の下くらいでした。中学校になり転校した先の学校で勉強する事の面白さに気づくチャンスがあり、そこから頑張ることができました。中学3年の時には塾にも行かせてもらいました。

お陰で兄弟3人とも高校は釧路市の進学校に行くことができました。高校3年生ではある程度勉強を頑張り北海道大学を受験しました。大学受験の合格発表を見るためになぜか釧路から札幌に電車で向かっていました。でも結果は自宅にちゃんと郵送されていました。開封して合格証書を見た父は、息子に一刻も早く合格を伝えたいと思い、電車(特急おおぞら)に電話してきました。

電車に電話をかける方法は謎でしたが、電車の車内放送で呼び出されて電話を取ると「研吾!合格しているよ!」と伝えられ、私は嬉しさのあまり電車の中で号泣したのを覚えています。北海道大学に合格した時と公認会計士試験に合格した時は人生で同じレベルで嬉しかったです。

そして私は前川家で初めて大学に行かせてもらうことになりました。兄弟三人国立大学を卒業することができました。その後私は公認会計士、弟は税理士になりました。従弟も公認会計士になり続きました。父は教育に対する意識が非常に高い人でそしてそれに応えたくて頑張りましたし、結果を出すと自分の事のように喜んでくれました。教育をしっかり受けたことにより、私達は自分たちの家族の生活を少しずつ楽にすることができるようになりました。

定年退職後に父は社会保険労務士の試験を受験していました。合格はかなわなかったのですが、専門学校のチューターには「息子さんたちは難関の資格に合格しているので頑張ってくださいね」と言われ3回ほど受験していました。

旅行が好きだった父

海外旅行は北海道在住者にとっては夢のまた夢。私達が大きくなるまではほとんど旅行に行っていなかったと思います。釧路空港から羽田空港まで行った後、成田空港から海外に出発しないといけないため、お金も時間も結構かかります。

父は定年後の数年間で色々な所に旅行に行きました。ハワイ、タイ、ベトナム、カンボジアetc. 1人でツアーに申し込んでベトナムに行っていた時は驚きました。以下の写真はハワイに家族旅行した時の写真です。

願わくばもう少しだけ健康な時間があればよかったなと思います。一生懸命仕事をしていてこれから自分の時間とお金を自由に使えるという期間があまりにも短すぎました。

自分の人生についても考えさせられました。定年後の健康寿命というのは意外と短いです。ほんの数年だったんじゃないでしょうか。もう少し色々一緒に行ければよかったです。

立つ鳥跡を濁さず

2020年12月20日に72歳の誕生日を迎えほっと一息ついたのか。私はたまたま早めにPCRの陰性結果を持ち25日の夜から釧路に帰省していました。前々日、前日と2回、滞在していた終末医療機関のホスピス病棟で15分ずつ会うことができました。

両耳が聞こえなくなり、目も片方しか見えなくなっていましたが、なんとか自分が来たことを認識して軽く筆談しました。安心させてしまったかな。父は誕生日から8日後の12月28日に亡くなりました。28日は早朝ホスピスから連絡を受けて駆け付けましたら、まだ温かいし寝ているのかなと思って母と起こしていましたが眠るように亡くなっていました。

父は年末年始休みで家族が集まれるようにしてくれました。コロナのためになかなかこの1年間家族が集まることが許されませんでした。年を越してほしかったですが、ある意味計画的な最後で30日通夜、31日葬儀と、年内にきっちりやり残すことなく旅立っていきました。亡くなる前には、自身の資産の整理や配分、解約すべきもののIDとPasswordをしっかりとまとめていました。

真面目で几帳面、そして家族思いだった父さん。本当にありがとう。そしてお疲れ様。これからも頑張るので天国から見ていてください。

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前川研吾 X(旧Twitter) RSM汐留パートナーズ 採用X(旧Twitter)
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