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私が社会保険労務士試験を受験した理由

昨年令和2年に社会保険労務士の試験を受験しました。残念ながら結果は上記のとおり選択式の健康保険法で1点足りず不合格となりました。社労士試験のあるあるですね。点数的には十分達しているのですが。。

様々な思いがあり社会保険労務士の試験を受験しましたのでブログに記しておきたいと思います。今のところは社労士試験の受験は昨年が最初で最後としもう受験はしないつもりです。自分としてはお恥ずかしい結果の自己開示なので、若干格好つけて書いておりますのでご笑覧ください(笑)

1.ワンストップファームの創業者として

私は2008年当時士業によるワンストップサービスのビジネスがまだ黎明期だったころに「クライアント第一主義」という経営理念のもと「顧客の目線に立ったプロフェッショナルサービスを提供したい」という思いからRSM汐留パートナーズを創業しました。

日本には管理部門のサポートをするための国家資格として、公認会計士、税理士、社会保険労務士、弁護士、司法書士、行政書士、弁理士など、本当に様々な資格があります。欧米だとこれらは公認会計士か弁護士かのどちらかが行うのだというシンプルな国が多いです。

このような日本の資格至上主義は顧客からすると非常にわかりにくく不便であり、一方私達士業であってもどの資格が何の業務を行うべきなのかが非常にあいまいであり、私は「クライアントはそんな事を考えずに業務を依頼することができ、プロフェッショナルファームは業法や資格の壁を超えてソリューションを提供できればいい」と考えていました。

私は公認会計士・税理士・行政書士・USCPAとして主に会計税務等の領域を日本語と英語で対応可能ですが、次の理由にもつながりますが「人」に対するサービスについてもしっかりと理解して会社を発展させていきたいという思いから社会保険労務士の試験を受験することにしました。

2.これからは一層「人」が大切になる時代

「ヒト・モノ・カネ」の中で何が一番大切か?経営者に問うとほとんどの方は「ヒト」と答えることでしょう。ITやAIで多くの人間の仕事が代替されていく将来において最終的に残る仕事は「人」でなければならないものです。もちろん「情報」も大切ですが。

この人と仕事がしたい
この人のために頑張りたい
この人たちを幸せにしたい
 など

そのような大切な「人」気持ちよく最高のパフォーマンスを発揮するためには、人事や労務に関連する環境が整備されていなければなりません。社会保険労務士の試験を通じてそのようなインフラを整えるための基礎を学びたいと考えました。

3.亡き父が4回受験して合格できなかった試験に対する興味

私の父は昨年末に72歳で他界しました。私が公認会計士、弟が税理士ということもあり何かしら国家資格取得に対する思いがあったのでしょうか。定年後に4回も社会保険労務士の試験を受験しました。合格すれば家族内ワンストップファームですね(笑)年齢的に60歳を過ぎてからの勉強だったのでとても大変だったと思います。

正月父の遺品を整理していましたら社労士試験の受験結果が見つかりました。箸にも棒にもかからなかったわけではなく結構いい所まで頑張っていた様子が伺えました。父は定年を過ぎてから社会保険労務士を目指しましたが、健康上の理由で諦めたこの「社会保険労務士」という資格に個人的に興味がありました。

ただ興味はあったのものの、余談ですが年金科目は好きにはなれませんでした。私は常勤ではないかもしれませんが生涯現役で、定年なく仕事をし続け報酬を得ると思うので、老齢年金をもらえることはないのだと確信したのでその点は切なかったです。遺族年金や障害年金は意味があるかもしれませんが(笑)

4.働きながら勉強することの大変さの理解

働きながら勉強することはとても大変です。過去に一度それを体験すべく33-34歳くらいでUSCPA(米国公認会計士)の勉強をしました。無事1年半で4科目揃えて合格することができました。ただ思うに日本の公認会計士がUSCPAに合格することはそこまで難しくないように感じます。やる気さえあれば。

今回改めて働きながらの社会保険労務士の試験勉強は大変だと感じました。税理士試験も同様ですが。働きながら試験に合格することは不可能ではありません。しかしながらそれはかなり大変な事です。家族や会社の応援も不可欠です。RSM汐留パートナーズとしてはメンバーが仕事と受験勉強を両立できるように今後も最大限サポートしたいと思います。

5.メンバーにトップ自ら頑張る姿勢を見せたい

ついつい事務所が大きくなると代表者ってあぐらをかいてしまいそうです。でもお陰様で仕事を通じてそのような良くない経営者の姿を見てきて反面教師にできました。自分がそうなってはいけないと思って何かせねばという気持ちが強くありました。

上述のとおり様々な理由で社会保険労務士の受験を決めましたが、やる以上はある程度勉強しました。2020年1月半ばくらいから7か月間くらいメンバーにトップ自ら頑張る姿勢は見せることができたのではないかなと思います。社内では一応一番良い結果でした。

残念ながら私自身合格はかないませんでしたが、今後はRSM汐留パートナーズの人事労務事業部のメンバーがたくさん社会保険労務士の試験を目指して頑張ってくれる環境になりました。そのため潔く1回の受験経験としたいと思います。おかげで私は社会保険労務士試験の大変さをよく理解するプロフェッショナルファームの代表者となることができたと思います(笑)。今後は人事労務分野も理解した経営者として、スペシャリストとしてのスキルアップから、経営スキルを磨くフェーズにシフトしながら人を育てRSM汐留パートナーズを発展させて業界に社会に貢献してまいります。

今後一層「人」が大切な時代となります。労働関係諸法令もめまぐるしく改正され、世の中の企業のコンプライアンスに対する意識もどんどん高くなってきています。RSM汐留パートナーズは人事労務に関するサービスを一層拡充してまいりたく、社会保険労務士やその受験生の方々をたくさんお迎えしたいと思っています。

人事労務業務のすばらしさについて代表者自らがよく理解し敬意を表していることを強くアピールしつつ結びとしたいと思います。RSM汐留パートナーズにおいて人事労務キャリアでご活躍したい方との出会いを楽しみにしています。どうぞよろしくお願い致します。

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前川研吾 X(旧Twitter) RSM汐留パートナーズ 採用X(旧Twitter)

私が公認会計士を目指した理由

本日1月15日でなんとなく節目の40歳になりますので、私が公認会計士を目指した理由について書いてみたいと思います。上記の写真は約20年前のゼミ飲みのもので、左上の目つきの悪い男が私です。私の下の女性も公認会計士となり今弊社のお仕事を手伝ってくれており20年の付き合いです。皆それぞれの分野で活躍しています。

さて、20年前の出来事について思い返してみると私が北海道大学の2年生であった2001年、札幌市は「サッポロバレー」というITベンチャー関連のビジネスで盛り上がっていました。札幌駅北口から北海道大学周辺にかけてと札幌テクノパークが舞台となりました。

しばしば、カフェでIT企業の経営者が集まり、そこに大学生が参加して色々と議論を交わし交流をするというようなことが行われていました。私は文系の学生でしたが、北海道大学には優秀な理系人材がたくさんいたため、彼らの頭脳を結集してITの分野で起業をしてみたいという思いがありました。

ですが、当時はそこまで高い志もなく、漫然と日々を過ごしておりました。学習塾でのアルバイトに日々明け暮れているうちにあっという間に大学3年生になってしまいました。

大学の学部は経済学部だったのですが、ミクロ経済学・マクロ経済学という学問的な内容がどうも好きになれませんでした。今となってはこれら経済学の知識はとても役に立っていますが、当時は本当に苦手でした。

周りのみんなが就職活動を始めていく中で、自分は何がやりたいのかわからず悩んでいました。特に就職したい企業もなくどうしようか考えていた時に、大学の授業で会計学や経営学に出会いました。きっかけとなったのは簿記でした。簿記2級から始めましたがとても面白くて、この分野をもっと極めたいと思うようになりました。

「会計学&経営学なら、自分の知識や経験で誰かの役に立つことができるのではないか?」そう思うようになり公認会計士を目指しました。恥ずかしながら公認会計士が具体的にどのような業務を行っているのか等についてはあまり理解しておりませんでした。

その時には非常に浅はかで、「公認会計士になれば税理士にもなれる」、「公認会計士になれば年収1000万円以上」という話を聞いて驚き勉強を頑張ろうと思ったというのもあります。

幸運なことに所属していたゼミが監査論のゼミでして、教授が公認会計士の受験を応援してくれる方でした(その教授はその後公認会計士試験の試験委員となりました)。

記憶は若干あいまいですが、教授に「前川くん会計士試験に一度落ちるといくら損すると思う?」と聞かれまして、「初任給500万くらいですか?」と答えたら「違う、最後の年収3000万だ!」と言われて頑張って早く合格しようとなったのを思い出します。

定年まで監査法人にいたらという話であって、今は時代も違いますがそれで奮闘させてくれたことには感謝しています。結果的には、IT産業ではなくプロフェッショナルサービスで起業しましたが、起業したいという思いは形を変えて実現することになりました。

昨年末に亡くなった父の遺品を整理していた時に、私が2003年に公認会計士試験に合格した時にLECで書いた合格体験記が見つかりました(この写真も目つきが悪いですね…)。父は私が公認会計士試験に合格した事を誰よりも喜んでくれました。応援してくれていた父のためにも生涯公認会計士としてビジネスマンとして頑張りたいと思います。

さて、公認会計士の仕事は「会計」というビジネスのインフラをつかさどる仕事です。それはITやクロスボーダーというテーマで形を変えつつもこれからも重要な産業であると思います。単純作業はITやAIに代替されていくのはもちろんですが、人により提供されるべきサービスは残っていくと思うので、「人間的な公認会計士」を引き続き個人としてもファームとしても追求してまいりたいと思います。

これから公認会計士を目指す方、税理士を目指す方に、「会計のすばらしさ」を伝えていくことや、「会計業界の魅力」を増し、メディアを通じてお伝えしていくことも1つの自分のミッションとしたいと考えています。一方で40歳を迎え、これまで「会計」については結構やってまいりましたので、これからの人生においては「経営」にもしっかりと軸足を置いていきたいと思います。皆様、引き続きどうぞよろしくお願いいたします。

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2021年年初挨拶

 

皆様、新年あけましておめでとうございます。本日より2021年のお仕事がスタートしました。以下のように年初の挨拶をさせて頂きました。コロナのためメッセージにて。

昨年は皆様も会社も初めての経験をたくさんした1年だったのではないかと思います。その中で私は「絆」の大切さを強く感じた 1 年間でした。これまでの社内外の方々との間に築けていた信頼関係のお陰で2020 年を乗り越えることができました。会えなくてもお互いのことを尊重し、相手の気持ちになり全力を尽くす。その繰り返しで助け合いながらこれからも難局を乗り越えていけると思います。
また昨年はこの新しい環境下でたくさんのメンバーにジョインしていただきました。2021 年は更なる世の中のパラダイムシフトとともに当社も大きく変革を遂げる 1 年となります。これまでの常識が常識ではなくなることが続いていくことでしょう。新しく加わったメンバーと「絆」を深め、新たなことに果敢にチャレンジしつつ、変化を大いに受入れ発展してまいりましょう。本年もどうぞよろしくお願い致します。

本年もRSM汐留パートナーズをどうぞよろしくお願いします。

2021年1月5日
RSM汐留パートナーズ
CEO 前川研吾

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立つ鳥跡を濁さず…教育にお金を惜しまなかった真面目な父

2021年新年あけましておめでとうございます。本年1回目のブログで最愛の父の旅立ちについて書こうと思います。

昨年2020年12月28日早朝、父前川紀秋が72歳で死去いたしまいた。病名は悪性リンパ腫で4年程闘病していました。12月30日に通夜、そして31日に葬儀と2020年いっぱいで自身の人生を完結し、子供たちに極力迷惑をかけないようにスケジューリングしたのでしょうか。仕事始めの日から通常の生活に戻ることができそうです。

父への感謝の思いについて棺に手紙を入れようとも思いましたが、ブログにしていつでも見てもらえるようにしておきたいと思います。生前私のブログの更新を楽しみにしてくれていました。RSM汐留パートナーズの発展を楽しみにしてくれていました。私が公認会計士に合格した時の書類も色々保管してくれていました。会社のパンフレットや私が執筆した書籍もすべて大切にしてくれていました。

上記の写真ように一瞬兄弟グレてしまって迷惑をかけましたが、おかげさまで一応恥ずかしくない人生を歩んでいるかなと思います。

病気と歩んだ人生

父は19歳の時に脳腫瘍になりました。釧路の病院ではもう治療ができず匙を投げられ、もう助からないと泣いていたとの事でした。ですが札幌の病院で良い先生に出会い1年越しの闘病生活を経て回復し仕事に復帰することができました。

その際の手術で左半身に一部麻痺が残り、また左耳が聞こえなくなってしまいました。一見そんな様子を見せずに普通に生活をしていたため、私は同居していた高校生くらいまでそのことをよく理解しておらず、あまり機敏に動けなかったり、呼んでも気付かなかったり、テレビの音量を大きくして聞いている父に辛くあたってしまったのを後悔しています。

ちなみに、母はど近眼で遺伝で私もど近眼になってしまったことから、小学校低学年のころから眼鏡をかけていまして、「お母さんのせいで目が悪くなったしまった」と、本当に心ない言葉を発してしまったのを覚えていますし後悔しています。子供って無邪気ゆえに残酷です。

1つの会社で勤め上げる

父は高校卒業後18歳で就職した釧路ガス㈱に定年まで45年以上勤めました。自分も人生で2つの会社だけですが1つの会社で勤め上げるというのは実に難しい事のように思います。色々な人間関係や配置転換等もあるでしょうし、忍耐も必要だと思います。家族のために貧困を乗り越えるため頑張って働いてくれました。そして病気した父を定年まで勤めさせてくれて本当に素晴らしい会社にお世話になりました。

ガス会社ということで、地震がとても多い釧路市では仕事は本当に大変だったと思います。確か震度3か4以上の地震では会社に全員駆けつけてすべてのガス管の点検をしないといけなかったとか。

1993年1月15日釧路沖地震、1994年10月4日北海道東方沖地震、2003年9月26日十勝沖地震と、3回も震度6の地震が襲いました。特に釧路沖地震は私の12歳の誕生会をしている真っ最中…家族も大パニックなのに父は会社に向かって1か月間復旧のため帰ってくることができませんでした。

ガスは長期間使用停止となり、私たち家族はカセットコンロでインスタントラーメンを食べながら父の帰りを待ったのを覚えています。

貧しくも教育にお金を惜しまなかった

父は教育に対してお金を惜しまず使ってくれました。本当は自身も大学に行きたかったようですが、家が貧しく長男として高校卒業後すぐに就職することにしたようです。読書が好きで色々な事を知っている父でした。

北海道の自然に囲まれていたため、貧しくも海で蟹を釣って毎日蟹三昧、鮭を釣ってサーモンといくら丼、その他キノコ狩り、山菜取り、ワカサギ釣りと自然の食材で今思えば超贅沢な暮らしをしていたようにも思います(笑)

さて、小学校の時は勉強をするのが嫌いで全然良い結果を残せず、私はどちらかというとクラスでも成績は中の下くらいでした。中学校になり転校した先の学校で勉強する事の面白さに気づくチャンスがあり、そこから頑張ることができました。中学3年の時には塾にも行かせてもらいました。

お陰で兄弟3人とも高校は釧路市の進学校に行くことができました。高校3年生ではある程度勉強を頑張り北海道大学を受験しました。大学受験の合格発表を見るためになぜか釧路から札幌に電車で向かっていました。でも結果は自宅にちゃんと郵送されていました。開封して合格証書を見た父は、息子に一刻も早く合格を伝えたいと思い、電車(特急おおぞら)に電話してきました。

電車に電話をかける方法は謎でしたが、電車の車内放送で呼び出されて電話を取ると「研吾!合格しているよ!」と伝えられ、私は嬉しさのあまり電車の中で号泣したのを覚えています。北海道大学に合格した時と公認会計士試験に合格した時は人生で同じレベルで嬉しかったです。

そして私は前川家で初めて大学に行かせてもらうことになりました。兄弟三人国立大学を卒業することができました。その後私は公認会計士、弟は税理士になりました。従弟も公認会計士になり続きました。父は教育に対する意識が非常に高い人でそしてそれに応えたくて頑張りましたし、結果を出すと自分の事のように喜んでくれました。教育をしっかり受けたことにより、私達は自分たちの家族の生活を少しずつ楽にすることができるようになりました。

定年退職後に父は社会保険労務士の試験を受験していました。合格はかなわなかったのですが、専門学校のチューターには「息子さんたちは難関の資格に合格しているので頑張ってくださいね」と言われ3回ほど受験していました。

旅行が好きだった父

海外旅行は北海道在住者にとっては夢のまた夢。私達が大きくなるまではほとんど旅行に行っていなかったと思います。釧路空港から羽田空港まで行った後、成田空港から海外に出発しないといけないため、お金も時間も結構かかります。

父は定年後の数年間で色々な所に旅行に行きました。ハワイ、タイ、ベトナム、カンボジアetc. 1人でツアーに申し込んでベトナムに行っていた時は驚きました。以下の写真はハワイに家族旅行した時の写真です。

願わくばもう少しだけ健康な時間があればよかったなと思います。一生懸命仕事をしていてこれから自分の時間とお金を自由に使えるという期間があまりにも短すぎました。

自分の人生についても考えさせられました。定年後の健康寿命というのは意外と短いです。ほんの数年だったんじゃないでしょうか。もう少し色々一緒に行ければよかったです。

立つ鳥跡を濁さず

2020年12月20日に72歳の誕生日を迎えほっと一息ついたのか。私はたまたま早めにPCRの陰性結果を持ち25日の夜から釧路に帰省していました。前々日、前日と2回、滞在していた終末医療機関のホスピス病棟で15分ずつ会うことができました。

両耳が聞こえなくなり、目も片方しか見えなくなっていましたが、なんとか自分が来たことを認識して軽く筆談しました。安心させてしまったかな。父は誕生日から8日後の12月28日に亡くなりました。28日は早朝ホスピスから連絡を受けて駆け付けましたら、まだ温かいし寝ているのかなと思って母と起こしていましたが眠るように亡くなっていました。

父は年末年始休みで家族が集まれるようにしてくれました。コロナのためになかなかこの1年間家族が集まることが許されませんでした。年を越してほしかったですが、ある意味計画的な最後で30日通夜、31日葬儀と、年内にきっちりやり残すことなく旅立っていきました。亡くなる前には、自身の資産の整理や配分、解約すべきもののIDとPasswordをしっかりとまとめていました。

真面目で几帳面、そして家族思いだった父さん。本当にありがとう。そしてお疲れ様。これからも頑張るので天国から見ていてください。

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