IPO準備会社におけるショートレビューと労務の論点
2023年9月6日
IPO準備会社における労務の重要性
IPO(Initial Public Offering)とは株式上場とも言われ、自社の株式を証券取引市場で自由に売買できるようにすることですが、東証の上場審査においては、「従業員・労務の状況」等に関しても説明資料として提出が求められており、労務管理が適切になされているかという点は、非常に重要な審査項目となります。
主幹事証券会社の審査をパスし、監査法人から2決算期の適正意見の監査証明を受けることができることとなり、上場審査に臨んだにもかかわらず、取引所の上場審査において承認がおりず、IPOの延期やIPOの中止を余儀なくされた企業は一定数存在します。
この点について、企業が実施した人事労務管理に関するショートレビューが「労働法制を遵守しているか否かだけのコンプライアンス調査」にとどまっており、適切なIPOのための労務関連の調査が実施されたとはいえず、労務管理上の問題を看過したことで、上場が承認されなかった可能性があります。
「労働法制上の違反性は認められない」と労務のショートレビューで評価されても、取引所の上場審査では、「労働者の保護」という観点からもサステナビリティ(持続可能性)の面からも課題があると評価される企業の上場は承認しないと考えられます。
これを裏付ける資料として、グロースへの新規上場時に求められる「新規上場申請者に係る各種説明資料」の「2.経営管理体制等の(18)従業員・労務の状況について」があります。
同資料は平成30年12月27日に改訂されていますが、「長時間労働の防止のための取組み」、「安全衛生に係る取組み」、そして「懲戒処分の状況」の項目が新設されたことや、従来は「労使協定の締結状況(協定の内容を含みます。)」とされていたものが「時間外及び休日労働並びにみなし労働時間制に係る労使協定の締結状況(協定の内容を含みます。)」とされるなど、単に労働法制を遵守するのみならず、投資家が、労働時間、賃金、労働安全衛生、差別、ハラスメント等の人権問題への取組みに熱心な企業を選別する傾向がある中で「労働者の保護」に対する注目度が高まっていることがうかがえます。
上場審査時に提出を要請される資料に着目し、当該資料から人事労務管理に関して上場審査で重視されると思われる事項は以下の通りであり、これらの項目を人事労務管理に関するショートレビュー時の調査項目とすることでより実効性のある調査を行うことができると思われます。
- 組織図、および直近1年間で部署等の責任者が退職した場合、その職位、退職理由、退職による業務上の影響および対応状況(他の人物の昇進、採用等)
- 勤怠管理方法および、未申告の時間外労働発生防止のための取組み
- 時間外・休日労働に係る労使協定の締結状況(特別条項を含む)
- みなし労働時間制に係る労使協定の締結状況(協定の内容を含む)
- 直近1年間および申請事業年度における「部署ごとの各月の平均時間外労働時間の推移」と「36協定に違反している従業員が存在する場合、当該従業員の時間外労働の状況」
- 長時間労働の防止のための取組み
- 「賃金未払いの発生状況・その後の顛末」と「賃金不払い残業の発生を防ぐための取組状況」
- 労基法上の管理監督者の状況
- 労働災害の発生状況および安全衛生に係る取組み
- 直近3年間における企業グループの労働基準監督署からの調査の状況
- 直近3年間における懲戒処分の状況
上場審査においては、労働法制上のコンプライアンスに問題がないことや賃金不払い残業がないことは当然のこと、賃金不払い残業の発生や長時間労働防止のために効果的な取組みがなされているか、労働災害の発生状況や安全衛生に係る教育・訓練、再発防止のために工夫している取組みは何か、内部統制の不備等により生じたことによる懲戒処分の状況等を確認した上で、適正な労務管理を行っているかを判断していると考えられます。
社会保険労務士によるショートレビュー(短期調査)の必要性
IPO準備会社は、監査法人と監査契約を締結し、2決算期の監査証明を得て上場審査に臨みます。したがって、上場するためには、監査法人との監査契約の締結が必要となります。ただし、依頼したIPO準備企業において、会計処理の根拠となる資料が検証可能な状態で整理されていない体制下では、そもそも監査法人が監査をすることができません。
そこで、監査法人は、当該IPO準備企業と監査契約の締結可否を判断するため、ショートレビュー(短期調査)を行い、監査を受けるための体制が整備されているか等を事前に確認した後、正式に監査契約を締結します。しかしながら、監査法人のショートレビューにおいては労務に関する領域についてそこまで深堀をすることはありません。
社会保険労務士による人事労務管理に関するショートレビューもIPO準備においては非常に重要であり、労働法制が遵守されているか否か、上場会社として相応しい人事労務管理が実施されているか否かを評価する場合、労働者名簿や賃金台帳等が適法に調製されず、労働時間管理が適正に行われていないような体制では、そもそも調査を実施することはできません。したがって、人事労務管理に関するショートレビューを行い、IPOに向けて現状においてどの程度、労務管理体制が整備されているかを確認する必要があります。
ショートレビュー項目の例
人事労務管理に関するショートレビュー項目としては、以下のような項目があります。
- 人事労務制度の整備及び運用状況
- 賃金制度
- 賞与制度
- 退職金制度
- 人事考課制度
- 育児・介護休業制度
- 定年後の再雇用制度
- 変形労働時間制・フレックス制
- 労働時間管理
- 就業規則の整備及び運用状況
- 絶対的記載事項と相対的記載事項
- 付属規程との整合性・網羅性
- 労働基準監督署への届出
- 管理監督者の実態
- 各種協定の締結・届出
- 育児・介護休業
- 定年後の再雇用
- 法定帳簿類の整備及び運用状況
- 労働条件通知書・雇用契約書
- 賃金台帳
- 出勤簿・タイムカード
- 有給休暇管理簿
- 労働安全衛生法関連
- 安全管理者・衛生管理者
- 産業医
- 健康診断
- 労災保険・雇用保険関連
- 健康保険・厚生年金関連
各項目の具体的な内容については、個別にご説明いたしますが、未払賃金の発生に関連する部分は、上場審査における最重要監査項目です。未払い賃金の存在は、簿外債務として決算書上の営業利益に影響を与え、業績や株価にも直接的に影響を与えます。さらに、本来、支払い義務のある人件費が正しく支払われていないことは、すなわち、法令が遵守されておらず、労働者の犠牲のもとに会社運営が行われている状態をも意味します。
賃金未払いのリスクは突如顕在化する可能性を有しており、金額や内容次第では財務のみならず企業イメージそのものに与えるインパクトが大きいことからも、上場審査時には5年間分(退職金を除く賃金については当分の間、3年間分。ただし、2020年4月1日以前の期間分については労基法改正前の2年間分)の未払い賃金がすべて精算済みであることが求められます。
取引所の上場審査では、賃金未払いの発生状況に加えて、その後の顛末、具体的には発生した未払い賃金を適切に精算しているか、さらに、「賃金不払残業の発生を防ぐための取組状況」まで確認するものと考えられます。
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