IPO(株式上場)の準備と労務DD(短期調査):変形労働時間制の運用
2024年6月24日
このコラムでは、労働基準法上の「変形労働時間制」の運用について、IPO(株式上場)を見据えて留意すべき点について解説します。
労働時間の基本的なルール
まず、変形労働時間制を考える上で前提となる、労働時間についての原則的なルールを確認しましょう。労働時間については、労働基準法第32条において、以下のとおり原則的なルールが定められています。
- 休憩時間を除き、1週間について40時間を超えて、労働させてはならない。
- 休憩時間を除き、1日について8時間を超えて、労働させてはならない。
この規定により、原則として、週40時間を超える労働、そして、1日8時間を超える労働については、それぞれ法律上禁止されている、ということになります。これが労働時間に関する基本的なルールとなります。
そして、この基本的なルールの例外を定めたものが、いわゆる「36協定(サブロク協定)」とよばれるものです(労働基準法第36条)。労使協定である36協定を締結し行政官庁(労働基準監督署)に届け出た場合は、例外的に、労働基準法第32条が定める原則的なルールを超えて労働させることができる、とされています。
なお、この場合、36協定は単に締結するだけではなく、労働基準監督署に届け出をしないと効力は生じません。また、労使協定の締結当事者が過半数代表(労働者の過半数を代表する者)である場合は、その過半数代表の選出プロセスが法令の要件を満たしたものであることが大前提となります。(過半数代表者については、コラム「 IPO準備と労務DD(短期調査):未払賃金の発生 」もご覧ください)
変形労働時間制とは
以上を前提に、変形労働時間制について確認します。まず、変形労働時間制とは、一般的に、以下の4つを指します。
- 1か月単位の変形労働時間制(労働基準法第32条の2)
- 1年単位の変形労働時間制(労働基準法第32条の4)
- 1週間単位の非定型的変形労働時間制(労働基準法第32条の5)
- フレックスタイム制(労働基準法第32条の3)
これらの変形労働時間制とは、労働基準法32条が定める原則的なルール(週40時間・1日8時間)を満たしているかどうかを、一定の単位(期間)で変則的に判断することを許容する仕組みです。例えば、1か月単位の変形労働時間制であれば、1か月以内の期間を平均して1週間の労働時間が40時間(原則ルール)を超えない限りは、それぞれの週や日で原則ルールの時間を超えて労働させてもよい、ということになります。
原則的なルールでは、あくまでも、毎週40時間・毎日8時間を守る必要があります。しかし、変形労働時間制を採用した場合には、一定の期間の平均で週40時間を超えていなければ、特定の週や日においてそれぞれ40時間または8時間を超える労働をさせることができます。このように、変形労働時間制を導入することで、特定の週や日に集中的に忙しい、といった現場のニーズに応じて柔軟な労働時間管理ができるようになるのです。
ところで、36協定と変形労働時間制はどのような関係にあるのでしょうか。結論としては、36協定というのは、労働時間の基本ルール(労働基準法第32条)や、その例外である変形労働時間制(労働基準法第32条の2〜5)を超えて労働させる場合に必要なものということになります。このため、変形労働時間制を採用している場合であっても、一定の期間を平均して週40時間を超える場合は、36協定を締結及び届け出しない限り、違法となりますので、注意が必要です。
変形労働時間制の導入
それぞれの変形労働時間制を実際に導入するためには、法令上の要件を満たさなければなりません。例えば、1か月単位の変形労働時間制を採用しようとした場合、就業規則または労使協定において、以下の事項を定める必要があります。
対象労働者の範囲
法令上、対象労働者の範囲について制限はありませんが、その範囲は明確に定める必要があります。
対象期間および起算日
対象期間及び起算日は、具体的に定める必要があります。
労働日および労働日ごとの労働時間
シフト表や会社カレンダーなどで、対象期間すべての労働日ごとの労働時間をあらかじめ具体的に定める必要があります。この場合、対象期間を平均して、1週間あたりの労働時間が40時間を超えてはなりません。
※フレックス制については異なる要件あり
労使協定の有効期間
労使協定の有効期間は、対象期間より長い期間にする必要があります。
これらの手続きを全て踏んだ上で初めて1か月単位の変形労働時間制が有効となります。同様に、その他の変形労働時間制においても、労使協定において必要な法定要件(それぞれ異なります)を明確に規定する必要があります。これらの法定要件を満たさずに導入された変形労働時間制は効力が生じませんので、導入の際の手続きには社会保険労務士などの専門家の助言を得るべきでしょう。
IPO(株式上場)審査を踏まえた留意点
IPO(株式上場)審査を見据えた場合に最も留意しなければならないポイントは、変形労働時間制を導入するための法定要件が確実に満たされているか、という点です。
そもそも、変形労働時間制とは、前述のとおり、労働基準法32条が定める原則的なルール(週40時間・1日8時間)を満たしているかどうかを、一定の単位(期間)で変則的に判断することを許容する仕組みのことです。すなわち、この条件を満たしている限り、特定の週や日で原則ルールの時間を超えて労働させていたとしても、割増賃金の支払い義務は発生しないことになります。
他方で、変形労働時間制を導入するための前提であるそれぞれの法定要件が満たされていなかった場合は、当然の帰結として、その変形労働時間制には効力が生じません。その結果、特定の週や日で原則ルールの時間を超えて労働させていた場合は、その超えている部分について全て時間外労働時間として割増賃金の対象となってしまいます。仮に、この状態が賃金請求権の消滅時効期間である3年間にわたって継続していたような場合(※時効期間について原則5年であるが、当面の間は3年とされています。)は、支払い対象となる割増賃金も莫大な額になることが予想され、上場直前の致命的なリスクとなり得るでしょう。(賃金請求権の消滅時効については、コラム「 IPO準備と労務DD(短期調査):未払賃金の発生 」もご覧ください)
実際に、最近の裁判例においても、法定要件を満たしていなかったことを理由として変形労働時間制の適用を否認するケースが出ています。このケースは、大手外食チェーンでの裁判例ですが、就業規則に全てのシフトが記載されていなかったために、1か月単位の変形労働時間制が無効となったものです。全国各地に多数の店舗を展開する大手外食チェーンのような業態では、それぞれの店舗ごとにシフトパターンが何通りも存在することはよくあることですが、そのような場合であっても、全てのシフトを明確に就業規則に記載しなければ、最終的に裁判で無効とされる可能性が高いことを示唆しています。
変形労働時間制は一定の範囲で柔軟な労働時間管理を可能にするものではありますが、前述のとおり、その導入には非常に厳格な手続きが必要であり、これに不備があった場合は最終的に未払い賃金として表面化してしまう可能性が非常に高くなります。この点は、IPO(株式上場)審査との関係では特に留意が必要です。
既に変形労働時間制を導入している場合は、導入のための法定要件を確実に満たせているかの再点検を実施し、仮に不十分な点があるのであれば、早急に是正する必要することが必要となるでしょう。