TNFD提言の理解と実践:その4・ガイダンスに見るシナリオ分析方法
2025年6月13日
TNFDシナリオ分析アプローチの特徴
本コラムでは、TNFDシリーズその2で触れたもう一つのTNFDのキーワード、レジリエンスに関連し、その評価の核となる「シナリオ分析」について理解を深めていきます。これは、TNFDの柱・戦略にある開示項目の1つ「自然関連のリスクと機会に対する組織の戦略のレジリエンスについて、さまざまなシナリオを考慮して説明」に該当します。このように開示項目として企業が準備しておく要件の1つとなっている点に、まず理解が必要です。また、シナリオ分析は、LEAPアプローチの特に「評価」フェーズに主に関わるものであると同時に、LEAPアプローチの中ですべての段階に情報提供するものと位置づけられており、TNFD実施における「リスク評価」ツールの一つともなっている点に留意が必要です。
なおTNFDは、その中で言及されるシナリオ分析に特化したガイダンスGuidance on Scenario Analysis(2023, TNFD) 1を策定しています。その中で、「組織が複雑な不確実性の下で戦略を策定し、そのレジリエンスをテスト」し、「組織が自然の喪失と気候変動の可能性のある影響、政府、市場、社会がどのように対応するかに関する方法、およびこれらの不確実性がビジネス戦略と財務計画に与える影響」を捉えるためにシナリオ分析が欠かせないと提起しています。そのガイドラインの特徴として、下記のような点が挙げられます。
- TCFDのシナリオ関連リソースである「非金融企業向けのシナリオ分析に関するTCFDガイドライン」(2020)をベースに作成されており、用語やアプローチは類似している一方、TCFDにおける理解をより発展的に展開している。またシナリオ分析および統合開示において、気候変動とそれ以外の自然の両方に対応するものとして位置づけられている。
- 特に定量化や定量モデルに急に飛びついて意思決定を行うのではなく、組織を取り巻く且つ組織の中身全体を深く理解するために、丁寧に設計された社内ワークショップ(下記参照)実施などを通して、定性的なアプローチからじっくり結論、意思決定にむけてシナリオ構築→分析へと次元を高めていく方法を推奨している。
上記を踏まえ本コラムでは、このガイダンス(下記、当該ガイダンス)を基にしながら、関連の文献や知見を併せて、TNFD対応に資するべくTNFD文脈上のシナリオ分析への理解を深めていきます。
シナリオ分析のポイント
当該ガイドラインをベースにTNFDの求めるシナリオ分析のポイントを、(1)分析前の段階に必要な問い、(2)ステップ、(3)留意点それぞれについて、次のように挙げることができます。
(1)シナリオ分析の前に必要な問い
当該ガイダンスではシナリオ分析の基本として、未来のシナリオを考える上で、次のような問いからスタートすることを薦めています。
- 今後どのような変化が起き得るか、その根拠は?
- 組織ビジネスモデルのレジリエンスに重大な変化をもたらし得る新たな自然関連のリスクおよび変化としてどのようなものがあるか?
- どのような不確実性が潜在的な変化をもたらし得るか?
さらに高度なシナリオ分析をする場合、複数の重要な不確実性、推進力およびその両方を取り入れながら、たとえば、下記のようなポイントをおさえることが推奨されています。
- どの物理的リスクおよび移行リスクを取り入れるか 。
- 自然シナリオと気候シナリオの関係はどのようなものか?単一の組織/施設/生物圏に焦点を当てた評価に留まっていないか。
- 事業およびバリューチェーンにおいて、複数の国や地域をどのように考慮すべきか 。
- シナリオに組み込むべき定量的な変数は何か。
- 適切な地理的な詳細情報はどの程度取り入れられているか。
(2)具体的ステップ
【ステップ 1】関連する駆動要因の特定
最も関連性の高い不確実性を定義するため、組織はシナリオにおいて探求すべき最も関連性の高い要因を評価する必要があります。自然関連に関わる不確実性要因は、生態系から、財務、ステークホルダー、技術、経済に至るまで複数存在することが想定されます。組織は、その文脈に応じて任意の駆動要因を設定できますが、当該ガイドラインは特に下記の2点については、デフォルトの要因であるとしています。(ワークショップ用にその2つを縦軸と横軸に交差させたマトリックスも提示)。
- 生態系サービスの劣化(物理的リスクや気候変動に密接に関連)。
- 市場と非市場の駆動要因の整合性(移行リスクに関連)
ここでいう「市場の力と非市場の力の整合性」とは、経済的なインセンティブ(市場の力)と、政策・規制・社会的要請など(非市場の力)が、自然資本や気候変動への対応に向けて、矛盾なく協調して働く状態を指します。
この整合性の有無は、企業にとって「トランジションリスク(移行リスク)」と深く関わっています。たとえば、炭素価格の導入や規制の強化といった政策(非市場の力)が急激に進む一方で、企業や市場の準備が追いついていない場合、大きなコストや事業リスクが発生します。逆に、市場と非市場の力がうまく整合していれば、自然や気候に配慮したビジネスへの移行がスムーズに進み、機会創出にもつながります。
この文脈でTNFDは、自然関連リスクの評価においても、こうした市場と非市場のダイナミクスのバランスが重要であると示しています。
【ステップ 2】重要な不確実性軸上のどこに現在位置しているかを特定
ワークショップを通して、その位置の特定するための議論を行い、参加者が組織の現在の状態と今後の見通しについて、広く共有された見解か、または大きく異なる見解を持っているかについても把握します。
【ステップ 3】シナリオのストーリーラインを構築
企業が選んだ「2つの重要な不確実性」を縦軸・横軸として交差させることで、4つの異なる未来のシナリオが作成されます。ここで大事なのは、「こうなってほしい未来」ではなく、「このようになる可能性もある」という視点で考えるものです。したがって、シナリオ分析を行う際には、単に「こういう未来がある」と受け入れるのではなく、「なぜそのような未来が起こるのか?」「どんな要因が積み重なった結果か?」を問い、背景にある因果関係を探ることが重要です。
【ステップ 4】組織の意思決定を明確化
ステップ 1~3を基にしたシナリオ分析を通じて得られた洞察を基に、組織の中長期的な意思決定(戦略、リスク管理、資本配分など)につなげます。まず、各部門の中堅〜上級管理職が時間をかけてシナリオワークショップを行い、その成果をもとに経営陣が戦略的な議論を進める形が推奨されています。シナリオに基づく内省的な対話により、ビジネスモデルの強靭化、新たなビジネス機会(例:ネイチャーポジティブなモデル)やTNFDに沿った開示内容の特定などが可能になります。また、「どの移行経路が現実的か」「何のデータが必要か」「さらなる分析に必要なものは何か」といった問いを通じて、より具体的な戦略選択につなげていくことが求められています。最終的には、不確実性への備えと組織レジリエンスの強化を図ります。
(3)実践上の留意点
上記を踏まえ、実践上の留意点として次が挙げられます。
- ここでいうシナリオは「確率的予測」ではありません。
- 一般的にシナリオは、より長期的(例えば複数年)に顕在化する可能性のあるリスクを特定するためのものでもあります。そうしたリスクは、通常、複数の一見関連性のない不確実性の交点で形を成します。こうした考え方は、TNFDのシナリオの考え方の基礎となっています。
- シナリオ分析は、単一のモデルの変化ではなく、複数の異なるモデルを考慮した上で行われるものです。したがって、単眼的でなく複眼的に現状を見ることが問われます。
- TNFDでいう不確実性は、単に分からない、未知である、曖昧であるということではなく、「意味のある確率を付与できないリスクと機会を暗示するもの」として位置づけられています。なお、TCFDの同様のガイドライン(2020)では、不確実性の定義として、「シナリオの時間枠内で、ある要因の将来の動向や結果が予測不能な程度を指す。不確実性の指標の一つは、社内の専門家が結果について一致できない場合」といった説明に留まっていたのに対し、TNFDの当該ガイドラインの説明は、より実際に一歩踏み込んだ、且つ発展的な解釈が用いられています。
- TNFDでいうシナリオは、計画者が考慮するシナリオに基づいて進める計画を表すことではなく、中・長期的という複数の時間軸から、且つ複数の角度から、組織全体のリスクと機会を見渡した上でのシナリオと捉えることができます。
- 自然シナリオと、気候シナリオとの対比として、次のような相違点があることにも留意が必要です。
- 温室効果ガス排出の場所は、気候変動への影響には関係ないのに対し、自然に関連する影響、依存関係、リスク、および機会は場所固有のものです。
- 気候変動における1.5℃の全球気温上昇目標に相当する、単一の自然関連の目標や合意された指標は存在しないことに留意が必要です。2022年12月に国連生物多様性条約第15回締約国会議で合意された昆明・モントリオールグローバル生物多様性枠組み(GBF)(2022年)は、グローバルな目標とターゲット、合意された指標のセットを提供していますが、これらのシナリオ分析への組み込みは依然として初期段階にあります。
なお、上記のように、現在、気候シナリオと同様の「即用可能な」定量的な自然シナリオは存在しません。現在、自然や気候の考慮事項を統合した科学に基づくアプローチの開発が行われている最中にあり、そうしたアプローチが確立すれば当該ガイドラインも随時更新がなされていく予定です。
レジリエンスとの関係性
上記のようにTNFDで用にいられるシナリオは、定義的には未来志向ですが、単にこうでありたいという期待レベルのものではなく、潜在的なリスクや不確実性を見極めたうえで、それらがどのように企業の現行のリスク対応や戦略に影響を及ぼすものかについて評価し、幅広い将来的な条件に対して戦略上のレジリエンスを図るためのものとして、位置付けられています。
なお、TNFDの文脈でいうレジリエンスとは、「変化と不確実性の中で生き残り、発展する力を指す」と当該ガイダンス上で定義されています。これは、リスクを機会に変える力とも言い換えることができます。また、具体的にこの力には以下のものが含まれます(当該ガイダンス参照)。
- 適応能力:ショックや混乱を吸収し、不快な転換点、閾値、および体制変化を回避する力
- 不確実性と驚きに備え、学び、対処する力
- 選択肢を維持し、イノベーションの余地を創出する力
- 危機や持続不可能な開発経路と、罠に直面した際のシステム変革力
シナリオデザイン方法のポイント
上記2. の中で既にそのデザイン方法に触れられていることを含めて、自然の特性に対応しつつ、気候関連のシナリオ分析から得られた教訓を踏まえて、総じて、次のようなTNFDシナリオデザイン方法を基盤にして進めることが推奨されています。
探索的シナリオ(Exploratory Scenarios)
将来における重要な不確実性を探り、多様な「ありうる未来像」を描く。これは「望ましい未来から現在へ逆算する規範的シナリオ(normative scenarios)」とは異なる。
定性的ストーリーライン
シナリオは質的なストーリーを基盤とし、必要に応じて定量的分析を追加して議論を深める構造。
ビルディングブロック方式
標準化された要素を組み合わせることで、企業が自社の立地や自然に関する文脈に合わせてカスタマイズ可能なシナリオを構築する。
2つの重要な不確実性を軸に構成
物理的リスクと移行リスクに関連した2軸に基づきシナリオを設計。これにより共通枠組みを保ちつつ、企業固有の事情にも対応可能。
柔軟で適応的
一律な方法論ではなく、各企業の状況に応じて柔軟に調整できるように設計。
他のシナリオ分析手法との補完性・相乗性
より高度な定量モデルやツールと組み合わせて、深掘り評価を可能にし、相乗効果を生み出す。
中長期的な時間軸
自然との依存関係や影響、リスク・機会を見通すために、中期~長期的な視野で設計。
なお、シナリオ分析における時間軸の設定に関して、TNFDの主要な設計特徴の一つとして、シナリオ分析とフォーサイト(展望)演習が挙げられており、3年先の未来を明確に計画するためには、組織は通常5年以上先を見据える必要があるとされています。
事例
実際に、どのようなワークショップがどのように実施されて、シナリオ分析が行われているのか、下記の事例を参考までに紹介します。
【ダウ・ケミカル社(Dow Chemical Company)】
(概要)ダウ・ケミカル(世界100以上の拠点を持つ米国の大手化学企業)は、2023年3月、テキサス州レイクジャクソンにて、同社の主力製造拠点である米国ガルフコースト地域の施設を対象に、TNFD(自然関連財務情報開示タスクフォース)のベータ版「シナリオアプローチ」のパイロットテストとして、15名の幹部や専門家が参加し6時間の対面ワークショップを実施。
この製造拠点は、多様なバリューチェーンに関わる製品を生産しており、淡水の供給や湿地による高潮・洪水防止といった生態系サービスに大きく依存しています。過去の異常気象(2021年の寒波やハリケーン、干ばつ)も踏まえ、自然関連リスクの現実的な影響について議論。
(シナリオ分析の内容)ワークショップでは、TNFDが用意した3つのシナリオを活用して、2030年の世界とダウの事業の将来を予測。
「シナリオ1:Sand in the gears(物事の進行を妨げる障害や混乱)」
政策や社会の対応が遅れ、自然資本の悪化が進行。頻発する気候災害や水資源の制約により、製造プロセスや供給網に大きな支障が出るリスクが高い。
「シナリオ2:Back of the list(後回し)」
自然関連リスクへの取り組みが企業・政府レベルで十分に優先されず、移行リスクが増大。法規制や市場の変化により、事業継続やコスト構造に大きな影響が及ぶ可能性。
「シナリオ3:Ahead of the game(先手を打つ)」
ダウ社を含む社会全体が自然資本保全に積極的に取り組み、リスクを機会に変える。湿地の保全・再生、水資源管理への投資が進み、事業の持続可能性が高まる。
(主な示唆・対策案)
- 早期警戒シグナル(early warning signals)の特定
- データ活用による意思決定支援体制の整備
- 湿地の再生によるハリケーン対策強化
- 将来の水不足に備えた水資源管理・投資の加速
本コラムでは、TNFDガイダンスに見るシナリオ分析方法について解説しました。全体的に見て、TNFDのアダプター(導入企業)の中でも、戦略上の開示項目である「レジリエンス」に関しては、対応の成熟度がまだ低いとされています。その意味でも、レジリエンスの考え方を戦略上にしっかり取り込んでいくためには、ここでいうシナリオ分析が欠かせません。ここでのポイントをおさえることは、TNFD対応を経営上戦略的に前に進める上で極めて重要になると考えられます。