はじめに
M&Aにおけるデューデリジェンス(DD)は、リスクを洗い出す作業であると同時に、その結果を買収価格や契約条件に反映させるための材料を集める作業でもあります。労務DDで見つかった未払残業代や社会保険の未加入も、金額として把握し、価格や契約条項に落とし込んではじめて、買主を守る実効性のある手当てになります。
ところが、調査報告書が「リスクの一覧」にとどまり、交渉に活かされない例は少なくありません。本稿では、M&Aにおける労務DDの役割を確認したうえで、減額交渉、表明保証、特別補償といった手段を、リスクの性質に応じてどう使い分けるかを解説します。
1.M&Aにおける労務DDの役割
労務DDの目的は、対象会社の「人」に関わる法令遵守状況と潜在的な債務を調査し、買収後の想定外の負担を防ぐことです。特にM&Aでは、簿外債務や偶発債務に当たりうる項目の把握が中心となり、その結果は財務DDの企業価値評価や、法務DDの契約条項の設計と組み合わせて使います。
ここで押さえておきたいのは、M&Aのスキームによって、労働契約と労務債務の承継方法が変わることです。
株式譲渡では、株主が売主から買主に移転するだけで、対象会社の法人格はそのまま存続します。労働契約の当事者も変わらないため、就業規則や労働協約を含めて労働関係は従前どおり継続します。過去の未払賃金や社会保険の遡及負担も対象会社に残り、買手企業に債務が承継されるようなことにはなりません。買主は株式を取得することで、これらを間接的に引き受けることになります。
合併・会社分割では、承継範囲の権利義務が包括的に承継されます。労働契約も当然に移転するため、労働者から個別に同意を得る必要はなく、労働条件も従前のまま引き継がれます。未払賃金や社会保険料の遡及負担といった過去の労務債務も、承継の対象となる範囲については、労働契約とともに買主側へ移ります。合併では消滅会社の権利義務がすべて移るのに対し、会社分割では承継の範囲が分割契約または分割計画の定めによる点が異なります。
事業譲渡では、承継する債務の範囲を契約で定める余地がある一方、労働契約を移すには労働者本人の同意が必要です。
M&Aのスキームにより、承継範囲やリスクの所在が異なります。また、それぞれのスキームに応じて最適なリスクヘッジの手段を使い分ける必要もあり、DDで把握した内容を価格と契約条項に反映させる作業が重要になります。
2.価格や契約条件に影響しやすい労務の論点
価格や契約条件に影響する労務の論点は、金額として算定できるものと、そうでないものに分かれます。前者は価格への反映を、後者は契約条項での手当てを中心に検討することになります。以下、価格や契約条件への影響が大きくなりやすい代表例を解説します。
金額として算定できるもの
未払残業代
労働時間を適切に管理して残業代の支払いができているか、固定残業代制度が有効に機能しているか、管理監督者の取扱いが適正か、といった項目が重要な確認ポイントになります。
社会保険・労働保険の未加入
加入漏れは、保険料の遡及納付と加入手続きの負担に直結します。短時間労働者の適用漏れや、報酬月額の算定誤りが典型的です。
未払退職金
退職金の支給漏れや支給額の不足等により未払賃金が発生するケースがあります。就業規則の支給ルールと実際の支給額に差分が生じていないか確認することが重要です。
金額として算定しにくいもの
労務紛争
ハラスメントや解雇をめぐる紛争等は、係争中の案件があれば請求額を手がかりにできますが、潜在的な紛争は、起きるかどうかも含めて予測が困難になりがちです。
キーパーソンの処遇と人事制度統合の難易度
いずれも事業価値を左右しますが、金額化はさらに難しくなります。定量的なリスクとは切り分けて整理するのが望ましいといえます。
3.労務リスクを「金額」に落とし込む
交渉で活用するには、リスクの規模を、相手方が検証できる形で金額に表す必要があります。
未払残業代については、賃金請求権の消滅時効が当面の間3年とされていることから、直近3年分を基本の対象期間とし、対象者ごとの割増単価、割増率、残業時間数から未払残業代の有無と金額を検証します。ここで注意したいのが対象者の範囲です。直近3年間に在籍していた退職者も請求権者にあたるため、現在の在籍者だけで試算すると、金額を過小に見積もることになります。
あわせて、裁判所が命じうる付加金(未払いの割増賃金と同額が上限)や、退職者の未払賃金に係る高率の遅延利息は、リスクの上振れ要因です。現実化の程度は個別事情によるため、基本シナリオとより厳しいシナリオを併記し、金額の幅として示すのが実務的です。
社会保険料および労働保険料については、徴収権の時効が原則2年とされており、遡及負担の試算はこの期間を基準にします。
退職手当の請求権の消滅時効は、権利を行使できる時から5年間とされています。そのため、直近5年間の退職者の要支給額と実際の支給額の乖離を検証します。
時効や利率、付加金の運用は、法改正や裁判例で変わりうるため、適用時には最新の法令・公的資料で確認してください。
なお、すべてを一つの数字にまとめる必要はありません。金額を見積もれるもの、存在は確実だが金額が未確定のもの、顕在化自体が不確実なものに分け、それぞれに適した交渉手段を割り当てていきます。この区分が、以降で述べる減額交渉、表明保証、特別補償の使い分けの土台になります。
4.買収価格の減額交渉への活用
金額を合理的に見積もれる労務債務は、買収価格に直接反映する余地があります。企業価値から有利子負債等を控除して株式価値を算出する際、確認された未払賃金、社会保険料・労働保険料の遡及負担、退職給付の積立不足などを、有利子負債に準ずる「債務同等項目(デットライクアイテム)」として控除する整理が一般的です。
減額交渉に説得力を持たせる要点は三つあります。算定根拠の透明性(対象期間、対象者、単価と時間数の前提を明示する)、客観的な裏づけ(タイムカードやPCログと賃金台帳の突合結果など)、そして是正費用の見積もり(制度の見直しや給与システムの改修など、買収後に必要となる費用)です。
ここで区別しておきたいのが、過去に生じた債務と、是正したあとも影響する増加費用の違いです。過去分の未払残業代等で金額が明確なものは、株式価値に反映するといった方向で検討することになります。これに対し、労働時間を適正に把握して割増賃金を支払うようになれば、人件費は恒常的に増えるため、将来の利益が圧縮されます。売主が「過去の問題であり、将来の収益力には影響しない」と主張する場面では、この点を財務DDの担当者と連携して示すことが有効です。
5.表明保証による備え
DDで把握しきれないリスクに備える手段が、表明保証とそれに基づく補償です。売主が、一定の時点で対象会社に関する事項が真実かつ正確であることを保証し、違反があれば買主の損害を補償します。株式譲渡では対象会社の権利義務がそのまま残るため、表明保証で明示的に手当てするのが通例です。
労務に関する典型的な表明保証は、賃金・割増賃金が適切に支払われ未払いがないこと、社会保険・労働保険の加入と納付が適切であること、労働関係法令に重大な違反がないこと、係争中または係争のおそれのある労務紛争がないこと、などです。買主は広く設定したい一方、売主は「重要な点において」「売主の知る限り」といった限定を求めるため、この範囲が交渉の焦点になります。
実務で特に注意したいのは、DDで把握した事項の扱いです。表明保証の条項には、通常、開示別紙(ディスクロージャー・スケジュール)が添付されます。売主は、保証の内容に反する事実をここに記載しておくことで表明保証を限定・修正することができます。DDで発見された未払残業代や係争中の紛争も、この別紙に記載されるのが一般的です。買主としては、別紙に載った事項をそのまま受け入れるのか、価格の減額や特別補償で手当てするのかを、一つひとつ判断することになります。
関連して、買主が知っていた事項について補償を求められるか(いわゆるサンドバッギング)も論点です。売主は、価格に反映済みのリスクについて重ねて補償することに抵抗するため、契約で明確にしておく必要があります。補償の上限、期間、少額損害の除外も、リスクの性質に応じて設計します。労務債務では賃金請求権の時効を踏まえて補償期間を設定する例もありますが、具体的な設計は案件ごとに検討します。
6.リスクの性質に応じた手法の使い分け
減額と表明保証は二者択一ではありません。リスクの性質に応じて組み合わせるのが基本です。第3章で整理した三つの区分に、クロージング前に解消できるものを加えると、次のように対応します。
| リスクの性質 | 主な対応手法 | 実務上の留意点 |
|---|---|---|
金額を合理的に見積もれる | 買収価格の減額(債務同等項目としての控除) | 算定根拠(対象期間・対象者・単価・時間数)を資料化し、売主が検証できる形で示す。 |
存在は確実だが、金額が確定していない | 価格への一部反映に加え、特別補償または代金の一部留保(エスクロー等) | 確定時に精算する仕組みと、補償の上限・期間をあわせて設計する。 |
発生する可能性はあるが、顕在化は不確実 | 表明保証と補償条項(開示別紙への記載の要否を含む) | DDで把握した事項を保証の対象外とするのか、特別補償で手当てするのかを契約で決めておく。 |
クロージング前に解消できる(社会保険の未加入、規程の不備等) | クロージングの前提条件または誓約事項としての是正 | 是正の完了基準と期限、履行されなかった場合の取扱いを定めておく。 |
特別補償は、DDで把握された特定のリスクについて、一般の表明保証とは別に売主が補償を約する仕組みで、影響額が未確定でも存在が確実なリスクに適します。代金の一部留保は、売主の資力に不安がある場合等に補償の実効性を確保する手段です。社会保険の未加入や規程の不備のように買収前に解消できるものは、将来に向けてクロージングの前提条件や誓約事項として是正を求めることも考えられます。
なお、表明保証保険を利用する場合も、買主がDDで把握した事項は保険の対象外とされるのが一般的です。労務DDで発見された未払残業代などは、価格調整や特別補償で手当てする必要があります。保険の条件は商品や案件によって異なるため、個別の確認が欠かせません。
7.交渉に活かすための実務ポイント
第一に、案件の初期段階から、財務・税務・法務の担当者と労務の専門家が情報を共有し、論点を横断的に整理することです。労務DDの結果は、簿外債務の評価、税務上の取扱い、契約条項の設計にまで影響します。分断して進めると、価格や契約に反映されないまま終わりかねません。
第二に、労務DDの結果をその後の交渉につなげる視点です。リスクの重要度や金額を整理するだけでなく、その内容に応じて、価格への反映、特別補償、クロージング前の是正など、どのような対応が想定されるかをあらかじめ見通しておくと、その後の条件交渉を進めやすくなります。
第三に、調査の限界を前提に設計することです。労務DDは限られた期間と開示資料のなかで行うため、サンプル調査にとどまる部分が必ず残ります。把握しきれなかった範囲は表明保証や補償条項で手当てする、という役割分担をあらかじめ決めておくと、交渉の論点が整理されます。
売主側も、売却プロセスに入る前に労務リスクを棚卸しし、是正できるものを先に是正しておけば、価格交渉で不利な立場に置かれることを避けられます。
8.RSM汐留パートナーズによる支援
RSM汐留パートナーズ社会保険労務士法人では、M&Aにおける労務DDについて、労働時間管理や賃金制度、社会保険の加入状況、退職給付債務の状況などの調査から、リスクの金額換算、買収価格や契約条項への反映に向けた論点整理まで、一貫してご支援しています。グループ内の公認会計士・税理士とも連携し、財務・税務の各DDと並行した効率的な対応が可能です。M&Aにおける労務リスクの扱いに少しでも不安がある場合は、お気軽にご相談ください。
