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前川 研吾 Kengo Maekawa

この記事の著者

前川 研吾 Kengo Maekawa

ファウンダー&CEO  / 公認会計士(日本・米国) , 税理士 , 行政書士 , 経営学修士(EMBA)

ESGにおけるウェルビーイングの戦略的意義

2025年8月1日

はじめに:ESGにおけるウェルビーイングの位置づけ

近年、ESG(環境・社会・ガバナンス)戦略における「S(社会)」の要素に注目が集まっています。その一角として、従業員や地域社会、さらには顧客やサプライチェーン上の関係者に関わる「ウェルビーイング」(Well-being)が、企業の中長期的価値創造と不可分であるという認識が広まりつつあります。こうした背景には、SDGsをはじめとした国際的潮流に加え、人的資本経営の重視、労働市場の構造変化、そしてパンデミック後の価値観の変容などが挙げられます。

本稿では、ESG戦略の中核として「ウェルビーイング」の意味と定義を再確認し、その戦略的意義を整理することで、経営者およびESG担当者に向けた実践的な視座を提供いたします。

ウェルビーイングの意味・定義と拡張的理解

ウェルビーイングは、「健康」や「幸せ」と訳されがちですが、今日の経営文脈ではより広い意味を持つ概念として理解する必要があります。WHO(世界保健機関)は、健康を「単に病気や虚弱でない状態ではなく、身体的・精神的・社会的に完全に良好な状態(well-being)」と定義しています(WHO憲章、1946)。この定義は、ウェルビーイングという概念が単なる健康や医療の領域にとどまらず、人間の包括的な生活の質に関わるものであることを示しています。

近年よく企業のウェルビーイング領域で言及されるOECD の「Better Life Index 」(BLI)は、物質的な生活条件と生活の質に関して、ウェルビーイングを国際的に比較するための指標ですが、WHOの定義を土台としつつも、ウェルビーイングを広義に可視化するツールとして位置づけられています。

具体的には、BLIでは、「健康」や「所得」だけでなく、「雇用」「住居」「教育」「市民参加」「安全」「ワークライフバランス」など、生活全体を取り巻く11のドメインで個人や社会の「暮らしの質(Quality of Life)」を可視化しています。つまり、心理的・身体的健康に加え、仕事の充実度、社会関係、経済的安定、環境との調和といった多次元的な要素が含まれます。

またウェルビーイングには大きく2つの側面があるとされており、主観的ウェルビーイングと客観的ウェルビーイングがあります。主観的ウェルビーイングには、精神的に良好な状態である“幸せ”、人生満足度、感情などが含まれ、客観的ウェルビーイングには、健康状態、所得、教育水準などが含まれます。企業の文脈からこの2つの側面を捉え直すと、従業員の幸福や働きがいの向上にとどまらず、地域社会への貢献、環境リスクの最小化、顧客との信頼関係など、組織を取り巻く全体的なエコシステムにおけるウェルビーイングの実現が求められることになる、と言えるでしょう。

ESGの各要素とウェルビーイングの関係性

2-1. ESGの「S」とウェルビーイング

企業において「ウェルビーイング」または「健康経営」が最近特に注目されている背景には、以下のような多層的な社会的理由があります(ESGの「S」に関連)。大きく分けると「社会的背景」「経済的合理性」「経営戦略の変化」「投資家・評価機関からの期待」の4つが挙げられます。

(1)社会的背景の変化

  • 人材の価値観の変化:Z世代やミレニアル世代を中心に、給与や安定よりも、働きがいやワークライフバランス、精神的な充実を重視する傾向が強まっています。
  • パンデミック後の気づき:新型コロナウイルス感染症の影響で、メンタルヘルス、孤独、リモートワークの在り方、過労などが可視化されました。

(2)経済的合理性(健康投資は”費用”ではなく”リターン”)

  • 健康経営=生産性向上:健康な社員は集中力が高く、欠勤や離職が減ることで企業全体の生産性と利益率が向上することが知られるようになりました。
  • 医療費・労災コストの抑制:社員の心身の不調による医療費、休職、代替人件費などの見えないコストを削減できるということも知られるようになってきました。

(3)経営戦略としての進化

  • 人的資本経営の中核:人材を「資源」ではなく「資本」として捉える考え方が主流になっています。
  • ウェルビーイングは、創造性、離職防止、ダイバーシティ推進などと直結し、経営戦略と人材戦略をつなぐ中核テーマです。
  • 組織文化・ブランド価値の形成:「社員を大切にする会社」は社内外からの信頼を獲得し、採用・定着・顧客ロイヤルティにも好影響を与える傾向にあります。

(4)投資家・ESG評価の視点

  • 人的資本の開示義務化:ISO 30414、SEC、ISSB、有価証券報告書などにより、企業は人材への投資状況や従業員のウェルビーイング指標の開示を求められています。
  • ESG評価や統合報告の観点:ウェルビーイングはESGの「S」要素として、企業の非財務的価値を裏付ける重要な情報と見なされています。

2-2. ESGの「E」(環境)とウェルビーイング

「S」以外に、ウェルビーイングはもちろん、ESGのEにも密接に関係しています。気候変動や自然災害、大気・水質汚染などは人々の健康や安全を直接脅かす要因であり、環境保全は地域住民や顧客のウェルビーイングの基盤です。また、自然と共生する働き方やライフスタイルを提案する企業活動は、従業員や消費者の内面的充足感の源泉にもなります。

2-3. ESGの「G」(ガバナンス)とウェルビーイング

ウェルビーイングを戦略に組み込むためには、取締役会や経営層の理解とリーダーシップが不可欠です。企業理念や行動規範にウェルビーイングを位置づけることに加え、経営戦略、評価指標、KPI(重要業績評価指標)、人的資本開示などの中に組み込むことで、全社的な展開が可能となります。

投資家・市場からの期待と人的資本開示

ウェルビーイングは、非財務情報としての人的資本の中核的要素とみなされており、統合報告書やサステナビリティ報告書の開示項目として注目を集めています。特に、ISO 30414(人的資本報告の国際ガイドライン)や、SEC(米国証券取引委員会)による人的資本開示義務、さらにはISSB(国際サステナビリティ基準審議会)による開示フレームワークの整備が進み、健康、エンゲージメント、離職率、職場の多様性、学習機会の有無などが、可視化・数値化の対象となってきました。

投資家、とりわけESG投資に積極的な機関投資家は、ウェルビーイングを単なる倫理的指標ではなく、中長期的に企業価値を支える本質的要素と捉えています。従業員の声を経営に反映させる仕組み、心理的安全性の醸成、メンタルヘルスの支援体制の有無などは、投資家とのエンゲージメントの場でも頻繁に議論される重要論点となっています。

加えて、日本国内でも2023年から有価証券報告書における「人的資本・多様性の開示」が義務化され、企業の説明責任が一段と高まっています。このような動向は、企業がウェルビーイングを戦略的課題として取り組む外部圧力を構造化することにもつながっているのです。

企業事例と実践的アプローチ

ウェルビーイングを戦略的に取り入れている先進企業では、個別施策にとどまらず、組織文化や事業戦略と一体化させる取り組みが進んでいます。ここでは、日本を中心に代表的な企業の事例を3社紹介します。

4-1 ユニリーバ・ジャパン

ユニリーバは「人間中心の成長(Human-Centered Growth)」を掲げ、従業員一人ひとりのレジリエンス(回復力)や幸福感を高めることが企業パフォーマンスの基盤であると位置づけています。具体的には柔軟な勤務制度や、マインドフルネス・プログラムの提供、心理的安全性に関する研修制度などを通じて、ウェルビーイングの向上と働きがいの醸成を両立させています。

4-2 花王株式会社

花王は「健康経営」を企業理念の一角に位置づけ、社員の運動習慣、食生活、睡眠の質などに対する支援策を体系的に展開しています。産業医や保健師による継続的な健康相談、ストレスチェックの高度活用、また健康スコアの分析によるKPI設定など、データに基づく実証的アプローチが特徴です。同社は経済産業省および東京証券取引所の「健康経営銘柄」に10度選出されており、ウェルビーイングを経営課題と位置づける先駆的存在といえます。

4-3 日本航空株式会社(JAL)

JALは、企業再建以降、「人づくり」を中核に据えた経営改革を進めています。特に重視されているのが「心理的安全性」の醸成であり、部門横断的に風土改革のためのワークショップやピアサポート制度が実施されています。さらに、従業員のエンゲージメント調査を定期的に実施し、その結果を経営層と共有することで、実態に即した改善サイクルを確立しています。

これらの事例に共通するのは、ウェルビーイングを短期施策ではなく「組織開発」として捉え、部門横断的な戦略に昇華させている点です。

戦略的ガバナンスの視点から:PERMAモデルと組織開発への応用

企業の戦略的ガバナンスの視点から、参考になり得る1つのモデルとして、PERMAモデルがあります。PERMAモデルとは、ポジティブ心理学者マーティン・セリグマンが開発したもので、ウェルビーイングの構成要素として、PERMA=Positive Emotion, Engagement, Relationships, Meaning, Accomplishmentを抽出しました。

このモデルは、個人の幸福理解にとどまらず、近年、企業のウェルビーイング向上施策の設計や評価にも応用されています。たとえば、PERMAが「職場満足」「業績」「チームワーク」「組織の回復力」などの指標と整合し、施策の設計や成果の可視化に資するフレームとして用いられる動きが確認されています。さらに、Frontiers in Psychologyが提唱する「PERMA+4」では、身体的健康・職場環境・経済保障・心理的安全性が追加され、職場環境と個人の充実感を統合的に捉える新たな枠組みとして注目されています。

組織開発の観点から見ても、ウェルビーイングは単なる個人の満足や健康を超えて、組織文化と組織能力の変革における戦略的な鍵となっています。組織開発は、構成員の関係性、信頼、行動パターン、対話の質を高めることで、組織全体の健全性と持続可能な成果を目指すアプローチです。近年では、エンゲージメントの高い職場づくりや心理的安全性の確保といった目標に向けて、PERMAモデルのようなウェルビーイング概念が導入され、組織開発の設計思想に組み込まれる事例も増えています。特に、自律性の尊重、意味のある仕事の提供、人的ネットワークの強化といった観点は、単なる福利厚生施策を超えて、組織の戦略的ガバナンスや人的資本経営の中核として重要性を増しているといえるでしょう。

まとめ:企業価値向上のための視点転換

ESG戦略におけるウェルビーイングの意義は、人的資本を中心とする非財務的価値の最大化にあるといえるでしょう。そのようにして位置づけられるウェルビーイングは、企業の持続可能性と競争優位性を支える新たな資産です。経営者およびESG担当者は、ウェルビーイングを単なるCSR施策ではなく、経営戦略と密接に連動した企業価値向上のための本質的な投資と捉えるべき時代に来ています。

一方、ギャラップ社が取りまとめる世界幸福度ランキングによると(https://data.worldhappiness.report/country/JPN)、日本の幸福度ランキングは引き続き低水準(55位)が示されています。その中でも自由に関する項目について79位にとどまっており、OECD諸国の中でも特に主観的幸福感の評価が低い傾向が継続しています。

こうした背景から、日本ではGDW(Gross Domestic Well-being/国内総充実)といった新たな政策指標が導入されてきました。GDWは、日本において幸福やウェルビーイングをより実質的に測るために提唱されている新しい社会指標です。これは、従来の経済指標であるGDP(国内総生産)では測れない「生活の質」や「充実感」「幸福度」といった主観・客観の両面からの人間的豊かさを包括的に捉えることを目的としています。GDWは、主に以下のような項目で構成されます。

  • 健康(身体・精神の両面)
  • 教育・学び
  • 所得と雇用の安定性
  • 人間関係・社会的つながり
  • 環境の安全性や暮らしやすさ
  • 自由や選択の幅
  • 生活に対する満足度・希望

企業にとっても、GDWの考え方は重要です。単なるGDP貢献ではなく、「社会的充実」への貢献が求められる時代において、企業はウェルビーイングの視点を経営戦略やCSR活動に統合していく必要があります。たとえば、従業員の働きがいやエンゲージメントの向上、地域社会との連携、ジェンダー平等、教育機会の提供など、GDWが示す方向性と親和性の高い取り組みは、今後の非財務的価値の源泉として注目されていくでしょう。

その他にも政策的に、企業や自治体に対してウェルビーイング関連施策の推進を奨励するようになっています。健康経営優良法人認定制度やインセンティブ税制、人的資本開示ガイドラインなどを通じて、間接的に企業の行動変容を促しているのが現状です。

今後、統合報告やESG評価の観点からも、ウェルビーイングの可視化と経営への統合が競争軸となるでしょう。経営戦略におけるウェルビーイングの再定義と実装は、企業の持続可能性を測る重要な指標であり、日本における社会的課題への対応力を高める鍵となるはずです。

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