TNFD 提言の理解と実践:その1・自然関連財務情報開示の概要と意義
2025年5月16日
はじめに:なぜ今TNFDか
自然関連財務情報開示タスクフォース(TNFD)は、あらゆる規模の企業と金融機関に対し、自然関連課題を特定し、評価し、管理し、そして適切な場合は開示するためのリスク管理と開示の枠組みを提供することを目的としています。しかし、この表現だけではそのTNFDの本質的な意味合い、「なぜTNFDか」を幅広く企業の担い手に伝えることは難しいでしょう。そこに近づくために、「自然関連財務情報開示タスクフォースの提言」(2023年9月)の序文にあるTNFD共同議長のメッセージを下記に着目してみましょう。
「地球上のすべての生き物の未来、そして私たちの将来の繁栄は、自然のレジリエンスにかかっている。自然の減少は私たちの社会の安全を脅かし、気候変動への緩和・適応能力を含め、ビジネスや投資家にとってのリスクを増大させる。自然界と生物多様性のレジリエンスを持続的に向上させることは、現在と将来の世代の繁栄を確実にするために不可欠である。(中略)将来のキャッシュフローは、自然がもたらすこれらの生態系サービスのレジリエンスにかかっている。9つのプラネタリーバウンダリーのうち6つがすでに限界を超え、気候変動のみならず、自然リスクが財務リスクであることがますます明らかになっている。現状維持はもはや実行可能な選択肢ではなく、自然は企業の社会的責任(CSR)の問題ではなく、戦略的リスク管理の問題として捉えられなければならない。」
このメッセージは、「なぜTNFDか」に直球で答えているように思われます。少し言葉を加えて解説してみましょう。
自然は本来、何らかの外的変化が起きても適応する力を備えており、自然システムの中で再生する力(レジリエンス)を有していますが、長年人間が自然界の中に過度に介入続けてきた結果、自然はそのレジリエンスを失いかけているという事実があります。その事実は、世界の科学者たちにより長年様々な科学的検証によって示されてきました。
上述されているプラネタリーバウンダリーは、2009年にストックホルムの環境学者ヨハン・ロックストロームを中心とする研究グループがはじめたもので、正にその科学的検証を国際社会に示し警鐘を鳴らしてきた代表的なものの一つです。生態系、水・森林環境などが本来持っているレジリエンス(この場合、自然に回復する力)が限界値を超えると、壊滅的な状態に達する危険性があるため、気候変動、生物圏の一体性損失(生物多様性の喪失と種の絶滅)、土地利用の変化、海洋酸性化、新規化学物質を含む9つの領域について、その限界値を示し、現状について数値を示し、更新し続けてきたのです。その「プラネタリー・バウンダリー(Planetary Boundaries)」の研究を踏まえ、既に生物圏の一体性損失などについて、生物の絶滅速度は既に取返しのつかないレベルにまで達していると報告がなされています。
上記は何を意味するのかといいますと、端的にいえば、暮らしや営みを支える生態系サービスが機能しなくなる方向に進んでいるということ。ひいては、企業の営みに大きな打撃を及ぼす方向に向かっているということ。つまり、自然リスクが企業の財務リスクにもなり、経営にも影響を与え得るということ、と捉えることができるでしょう。さらに一歩踏み込めば、自然のレジリエンスを壊さないラインまで、また限界を超えてしまった自然のレジリエンスを再び機能することを促すラインまで、事業の在り方を見直さなければならない、という言い方もできるでしょう。
こうした事態への、企業の関与を仕組み化するために、TNFDがはじまりました。
誕生の背景と国際的動向
TNFDは、トップダウンでつくられた規制とは異なり、国際サステナビリティ基準審議会(ISSB)やグローバル・レポーティング・イニシアティブ(GRI)を含む既存の枠組みや基準をベースとし、市場参加者やその他のステークホルダーがアイデアを持ち寄り、オープン・イノベーションのアプローチを用いて開発されたという特徴を持ちます。
TNFDを後押ししたのは、2022年12月に開催された生物多様性条約第15回締約国会議です。そこで196カ国が「昆明・モントリオール生物多様性枠組」に合意し、2030年までに自然の損失を食い止め、反転させ、2050年までに自然と共生するための世界各国のコミットメントが示されました。その中で、この移行を可能な限り秩序だったものにし、ビジネスや金融を含む社会のあらゆる分野の潜在能力を最大限に引き出して、ネイチャーポジティブという成果に貢献するために、このTNFDが動き出したのです。
なお、SSBJシリーズその5に触れたように、国際サステナビリティ基準審議会(ISSB)基準は、生物多様性や生態系といった、TNFDのスコープも視野に入れた新しいプロジェクトをはじめており、そのうちにTNFDも日本サステナビリティ開示(SSBJ)基準の中に取り込まれていく可能性があることに留意が必要です。
TNFD提言と枠組み
TNFDは過去10年にわたる気候関連報告に関する市場の経験や、気候関連財務情報開示タスクフォース(TCFD)の作業を踏まえ、投資家やその他の資金提供者に対して、企業が明確で比較可能な一貫性のある情報を提供することを促進するという役割を果たすことに主眼を置いています。具体的にはTNFDは次のような14項目の開示を提言し(下記①~⑭は本稿便宜上付したもの)、測定指標のセットおよび一連のガイダンスを提供しています。
【ガバナンス】自然関連の依存、影響、リスクと機会の組織によるガバナンスの開示。
①自然関連の依存、影響、リスクと機会に関する取締役会の監督について
②自然関連の依存、影響、リスクと機会の評価と管理における経営者の役割について
③自然関連の依存、影響、リスクと機会に対する組織の評価と対応において、先住民族、地域社会、影響を受けるステークホルダー、その他のステークホルダーに関する組織の人権方針とエンゲージメント活動、および取締役会と経営陣による監督について
【戦略】自然関連の依存、影響、リスクと機会が、組織のビジネスモデル、戦略、財務計画に与える影響について開示。
④組織が特定した自然関連の依存、影響、リスクと機会を短期、中期、長期ごとに説明
⑤自然関連の依存、影響、リスクと機会が、組織のビジネスモデル、バリューチェーン、戦略、財務計画に与えた影響、および移行計画や分析について
⑥自然関連のリスクと機会に対する組織の戦略のレジリエンスについて、さまざまなシナリオを考慮して説明
⑦組織の直接操業において、および可能な場合は上流と下流のバリューチェーンにおいて、優先地域に関する基準を満たす資産および/または活動がある地域を開示
【リスクと影響の管理】組織が自然関連の依存、影響、リスクと機会を特定し、評価し、優先順位付けし、監視するために使用しているプロセスを説明。
⑧直接操業における自然関連の依存、影響、リスクと機会を特定し、評価し、優先順位付けするための組織のプロセス
⑨上流と下流のバリューチェーンにおける自然関連の依存、影響、リスクと機会を特定し、評価し、優先順位付けするための組織のプロセス
⑩自然関連の依存、影響、リスクと機会を管理するための組織のプロセス
⑪自然関連リスクの特定、評価、管理のプロセスが、組織全体のリスク管理にどのように組み込まれているかについて
【測定指標とターゲット】マテリアルな自然関連の依存、影響、リスクと機会を評価し、管理するために使用している測定指標とターゲット
⑫組織が戦略およびリスク管理プロセスに沿って、マテリアルな自然関連リスクと機会を評価し、管理するために使用している測定指標
⑬自然に対する依存と影響を評価し、管理するために組織が使用している測定指標
⑭組織が自然関連の依存、影響、リスクと機会を管理するために使用しているターゲットと目標、それらと照合した組織のパフォーマンス
なお、上記のリストは、項目として羅列的に見るよりもむしろ、これらを企業の戦略面からどのように捉えるかという視点が重要になるでしょう。そうした視点から、TNFDに取り組む上で重要と思われる点を2つ挙げておきます。
第一に、企業が自然資本(生態系サービスなど)にどれだけ「依存」しているかと、企業活動が自然にどのような「影響」を与えているかの両方の側面を、バリューチェーン全体(直接的なオペレーションだけでなく、上流、下流を含めて)を通して評価することが求められています。
「依存」については、企業が自然資本や生態系サービスにどれほど依存しているかを評価します。たとえば、水資源に依存している、気候の安定に依存している、などが挙げられるでしょう。
「影響」については、企業の活動が自然にどのような影響を与えてしまうのかという点です。この影響については、企業活動が及ぼす、森林伐採、水質汚染、生物多様性の損失、土地利用による自然破壊または自然環境への影響などが挙げられます。
こうした依存と影響が強調されているのは、冒頭の「プラネタリーバウンダリー」と大きく関係します。長年にわたる人間社会の営みが極めて深く自然界を侵してきた結果としての現状に鑑み、その侵された病を少しでも良くするための前提として、どれだけこれまでの人間社会の営みが自然に依存してきたかを可視化し、どのような影響が自然に及ぼされているかを把握するというように、病の根幹を捉えることが要求されているのです。このため、直接的なことだけでなく、間接的な依存、影響も含めて、さらに直接的なオペレーションだけでなく、上流、下流を含めて見ていく必要があるということになります。
第二に、TNFDは、TCFD(気候関連財務情報開示タスクフォース)を基礎としており、TCFD提言における4つの構成要素(ガバナンス、戦略、リスク管理、指標と目標)を基礎に置いていることに違いはありません。また前述のISSB基準/SSBJ基準もTCFDを基礎にしています。したがって、TCFD、TNFD、SSBJと、別々に基準遵守に追われるよりむしろ、これらを戦略的な観点から全社的に俯瞰的に(木も見て森も)捉えていくことが重要になると考えられます。
LEAPアプローチ
上述のような枠組みに沿って企業は、出来る限り一次情報を社内で収集・統合・分析し、情報公開することが求められるわけですが、その際に活用が推奨されるガイダンスも幾つも公開されています。そのガイダンスのうちの主だったものの一つに、LEAPアプローチ(自然関連課題の特定と評価のためのアプローチ)があります。このアプローチは、240以上の組織がパイロットテストを行い、その結果に基づき公表されています。
LEAPアプローチと聞くと、何か特別なことにように想像されるかもしれませんが、基本的に、スコーピング(Scoping)を経て⇒Locate(<自然との関係性を>位置づける)⇒Evaluate(<自然への依存・影響を>評価する)、Assess(<リスクと機会の>アセスメントを行う)⇒Prepare(準備する)のステップを指します。基本的ながら、実際にはなかなか組織内で徹底が難しい重要なプロセスをあらためて提示したものと言えるでしょう。
他方、それぞれの項目では、細かなガイダンスが様々詳しく提供されており、その中でも特徴的なことを2つに絞って挙げておきます。
1点目として、「場所」が重視されていることが特徴的です。具体的には、「Locate(位置づける)」の中で、3つのフィルター(セクター、バリューチェーン、地理的位置)を用いて自然に関連する潜在的な問題を絞り込み、優先順位をつけることを推奨しています。自然関連の依存関係や影響、リスク、機会は場所特有のものであるため、これらを特定、評価、管理する上でその文脈や「場所」が非常に重要であることが強調されています。
なぜ場所が重要なるのでしょうか?一言でいえば、自然関連のリスクや影響は場所によって大きく異なるためです。例えば企業が晒される現場として、水ストレスの高い地域での工場操業、生物多様性ホットスポットでの土地開発など、が考えられます。
具体的には、自社の施設やサプライヤーがどの自然資本と接しているかを地図で可視化すること、またはそれぞれの場所での生態系サービスの状況や脆弱性を分析することなどが、こうした重要項目への対応としては必要になってきます。
2点目として、Science Based Targets Network(SBTN)によって開発された「AR3T」フレームワークを導入している点が特徴的です。TNFDは「Prepare(準備する)」、つまり現状把握を元に対応策を決定する際の指針として、「AR3T」フレームワークの採用を推奨しています。このAR3Tとは、「回避(Avoid)」→「軽減(Reduce)」→「再生(Regenerate)」&「回復(Restore)」というように、企業対応において連続的にアクションが必要とされる4つのタイプのアクションに加え、こうした一連のアクションを可能にするための「変容行動(Transformative Action)」を重視しており、それぞれの英語の頭文字をとって表現したものです。
特に、LEAPアプローチは、この「AR3T」フレームワークを介して、「自然への負の影響を回避するまたは最小化するためのアクションは、既存の負の影響を補完的方法などで回復するためのアクションよりも先ず優先されるべきアクション」であることを強調しています。さらに「自然への負の影響を軽減することと、ネイチャーポジティブ(正の成果を生み出すこと)とは、同じではない」と言い切ります。つまりは、それほど自然への負の影響を回避する、軽減するためのアクション無くしては何も始まらないということ。言い換えると、その回避・軽減ためのアクションは、全てのTNFDの土台になり、そのアクションを興してこそ、ネイチャーポジティブも可能になるし、そこから企業の機会も生まれるという点が、重視されていると言えるでしょう。
TNFDをとりまく企業の動向
2024年10月のCOP16時点で、TNFDの推奨に沿った自然関連リスクの報告を開始することを表明した企業・金融機関は502社に達し、2024年1月から57%増加しました。世界全体でも参画する企業は54 の国・地域、62の業種にわたり、上場企業の時価総額は6.5兆ドル、金融機関の運用資産総額は17.7兆ドルに上ると言われています。
興味深いことに、上記502社のうち日本企業および金融機関の数は約133社に達し、国別で世界最多となりました。全体502社のうち約26%を占めていることになります。この数字は、2024年1月時点での80社から大幅に増加しており、TNFDの枠組みに基づく自然関連リスク・機会の開示に対する日本企業の関心と取り組みの強化を示していると言えるでしょう。日本政府の支援や、企業のサステナビリティへの取り組みの強化、国際的なESG投資家からの期待の高まりなどが背景にあると考えられます。
一方、全体的な企業のTNFD実施状況につき、一般的な観点から次のような課題を挙げることができます。
- データ不足と精度のばらつき
自社やサプライチェーンの自然資本への「依存」や「影響」を把握するためのデータが不十分。特にグローバルな調達先や小規模サプライヤーに関する情報が乏しく、リスク評価が困難。 - 評価手法の統一性欠如
生物多様性や水資源などの影響評価において、共通の尺度やガイドラインが不足。ENCORE やSBTNなどのツールもありますが、適用に専門知識が必要で、企業によって対応に差。 - 人的リソースと専門性の不足
環境・サステナビリティ部門に十分な人員や知見がなく、開示や戦略立案が手探り状態。 - 経営層の関与の薄さ
財務的な優先課題に比べて、自然関連課題は中長期のリスクとみなされ、経営の優先順位が低くなりがち。
今後、こうした課題を克服するためには、一企業で取り組むだけでは不十分で、学術または研究組織、地域コミュニティ、市民社会との協働が不可欠になっていくと考えられます。