労務問題が原因でIPO(株式上場)が延期あるいは中止になる事例
2024年5月23日
「IPO準備会社におけるショートレビューと労務の論点」では、グロース市場上場のために必要な「新規上場申請者に係る各種説明資料」(有価証券上場規程施行規則第231条第1項第4号に規定する提出書類)で求められる記載事項を踏まえて、人事労務管理に関する短期調査(ショートレビュー)で重視すべき調査項目について概括しました。
このコラムでは、新規上場審査に深刻な影響が出る可能性が高い5つの項目に着目し、IPO延期またはIPO中止を回避するために重要となる要素について解説します。
未払い賃金問題
未払い賃金に関する問題は、新規上場審査において最も重要視される項目の1つとされています。「新規上場申請者に係る各種説明資料」で記載が求められている項目のうち、賃金に関する言及が複数に及んでいることからも、取引所が未払い賃金に関する申請会社の対応を重要視していることがわかります。これは、プライム及びスタンダード上場の際に提出が求められる「新規上場申請のための有価証券報告書(IIの部)」でも同様です。
未払い賃金については、IPO時に過去3年分の清算が完了していることが必要です(退職者も含む)。これは、労働基準法115条及び労働基準法附則143条3項の定めにより、退職手当を除く賃金請求権の消滅時効が当分の間3年(本来は5年)とされていることが根拠となっています。なお、退職手当の請求権の消滅時効は5年ですので、退職手当に未払いがある場合は過去5年分について清算が必要です。清算に加え、対象となる社員にその他の未払い賃金債権が存在しない旨の確認を書面で取り付け、リスクコントロールに万全を期すべきでしょう。
このように、未払い賃金問題の解消には非常に大きな労力が必要となることから、上場申請直前に未払い賃金問題が発覚した場合には特に致命的になり得ます。IPO(株式上場)準備に取り掛かる際には、賃金制度に詳しい社会保険労務士の助言を得るなどして、できるだけ早期に未払い賃金問題の解消に着手すべきといえます。
不適切な勤怠管理
IPO(株式上場)において最も重要な項目の1つである未払い賃金問題が表面化してしまう主な要因に、不適切な勤怠管理が挙げられます。そもそも、賃金の正確な支払いは、その根拠となる労働時間が正確に記録されていることが大前提となりますが、適正な勤怠管理がなされていない場合、労働時間の把握は著しく困難となり、結果として未払い賃金が発生する原因となります。
勤怠管理(労働時間の把握)については、タイムカードによる記録やパーソナルコンピュータ等の電子計算機の使用時間の記録等、客観的な方法で行わなければなりません(労働安全衛生法66条の8の3及び労働安全衛生規則第52条の7の3)。実際の運用に際しては、厚生労働省の「労働時間の適正な把握のために使用者が講ずべき措置に関するガイドライン」を十分に踏まえた労働時間管理を講じることが必要です。
なお、正確な労働時間の把握は、いわゆる法定三帳簿の1つである賃金台帳(労働基準法108条)の調製のためにも必要となります(※賃金台帳、労働者名簿、出勤簿を法定三帳簿とよび、これに加え、年次有給休暇管理簿を加えて法定四帳簿と呼ぶ場合があります)。基本的な労働法令を遵守しているかどうかという観点からも、毎日の勤怠管理が適正な形で行われているかどうか改めて点検することが望ましいでしょう。
長時間労働
新規上場審査においては、「長時間労働の防止のための取組み」についてはもちろん、「最近1年間及び申請事業年度における部署ごとの各月の平均時間外労働時間の推移」や「最近1年間及び申請事業年度において、36協定(特別条項を締結している場合には当該条項の内容)に違反している従業員が存在する場合、当該従業員の時間外労働の状況」について具体的な説明が求められます。このように、取引所は長時間労働についても相当な注意を払っているものと推察されます。
長時間労働の抑制に関する近年の法規制の動きを俯瞰すると、特筆すべき転換点は、2018年に制定された働き方改革関連法による労働基準法の改正により、時間外労働の上限時間が初めて設定されたことにあります。これにより、大企業については2019年4月1日から、中小企業については2020年4月1日から、それぞれ時間外労働の上限規制が適用されています。また、2024年4月1日からは、上限規制の適用が猶予されていた建設事業、自動車運転の業務、医師についても上限規制の適用が開始されています。
長時間労働に関する法規制がこれだけ進んでいる背景には、長時間労働を原因とする過労死等が相次いでいる(※例えば令和4年度については、過労死等に関する労災申請が3,486件なされ、このうち、904件が労災認定されています)ことや、働き過ぎによるメンタルヘルス不調などの健康障害の発生、さらにはワークライフバランスの悪化など、長時間労働が労働者の心身に深刻な悪影響を及ぼしている現状があります。
このように、長時間労働の改善が株式市場における企業の健全な発展のために最優先で取り組まなければならない人事労務管理の要素の1つであることは明白です。IPO時に長時間労働に関する詳細な調査がされることは当然の帰結、といえるでしょう。
管理監督者・裁量労働制
いわゆる「管理監督者」とは、労働基準法第41条2号が定める「監督もしくは管理の地位にある者」のことを指します。管理監督者には、労働基準法上の労働時間、休憩、休日に関する規定が適用されないことから、割増賃金の支払いも対象外となります。
他方で、労働基準法第41条2号の「監督もしくは管理の地位にある者」が具体的に意味するもの(すなわち、管理監督者の定義)は必ずしも明らかにされておりません。行政通達や裁判例の積み重ねにより一定の考え方は確立されてはいるものの、実務上はその判断は難しく、本来であれば通常の労働者として処遇すべき者を管理監督者として処遇してしまっているケースも散見されます。
新規上場審査の際、管理監督者については、「管理監督者の状況(部署ごとに、申請会社で定義(認識)している管理監督者(管理職)の数と、労働基準法で定めるところの管理監督者の数を一覧にして記載してください。なお、差異が発生している場合にはその理由も記載してください。」との説明が要請されています。これは、仮に株式上場後に管理監督者性が否認されるような状況に発展した場合、その帰結として管理監督者として処遇されていた社員の割増賃金が最大で過去3年分(※「1.未払い賃金問題」の章の消滅時効に関する記載を参照)未払いの状態となることから、場合によっては莫大な財務的インパクトとして顕在化する可能性があるからです。同様に、いわゆる「裁量労働制」とよばれ、実際の労働時間に関わらず一定の時間働いたものとみなされる専門業務型裁量労働制(労働基準法第38条の3)及び企画業務型裁量労働制(労働基準法第38条の4)についても、法定要件を充足しない場合、結果として割増賃金の未払い状態が発生することになります。
このように、管理監督者及びみなし労働時間制の運用に際しては、社会保険労務士による助言も得つつ、新規上場申請前に総点検をしておく必要があるでしょう。
労働基準監督署からの調査
労働基準監督書からの調査状況についても、IPO(株式上場)の際の説明項目の1つとなります。具体的には、「最近3年間及び申請事業年度における企業グループの労働基準監督署からの調査の状況(調査日、調査内容、指導及び是正勧告の有無並びにその内容等。企業グループのうち記載が困難な会社がある場合には、その理由を示し、記載を省略することができます。)」について説明が求められます。
労働基準監督署による調査のことを「臨検」とよびますが、臨検の結果法令違反が認められた場合は、労働基準監督官から「是正勧告書」が交付され、是正を求められることになります。法令違反に至らない場合でも、改善が必要な項目に対しては「指導票」が交付され、一定の是正が求められます。なお、労働基準監督署からの是正勧告を放置していた場合、最終的には検察庁に送検されることになります。令和4年労働基準監督年報によれば、令和4年の送検件数は783件となっており、このうち、266件が実際に起訴されています。
取引所が労働基準監督署からの調査の状況を報告させる意図としては、IPO申請会社の法令遵守に対する姿勢が上場会社としてふさわしいものか確認するところにあると推察されます。臨検が発生すること自体は必ずしも会社がコントロールできる範囲ではありませんが、労働基準監督署に法令違反の状態について指摘された際、具体的にどのような是正措置を講じて改善を図ったかについては、会社の遵法精神が如実に現れるポイントとなります。臨検を受けても指摘事項がないように普段から法令遵守を徹底することはもちろんですが、仮に指摘を受けた場合であっても、迅速かつ誠実に対応することが大切です。取引所は、会社が実施した具体的な是正措置の内容が実態を伴っているかについても説明を求めるでしょう。